短歌と瞑想(3)

 人間にとって最大のわざわいは人間だ。自然現象による災害などは、人間が引き起こす災いに較べれば、たかが知れている。源平の合戦は全国の武士たちを巻き込んだ大戦争だったが、その後で成立した鎌倉幕府は、強い裁判権を行使することで、百年あまりの期間、なんとか平和を保つことに成功した。しかし、鎌倉幕府滅亡以後、江戸幕府が成立するまで、人と人が殺し合う愚かな時代が、250年も続いた。『風雅集』はそういう時代の真っただ中で編纂された。

 『風雅集』の撰者は光厳上皇(1313年ー1364年)で、花園上皇(1297年ー1348年)が監修をされた。光厳上皇は、お名前は量仁(かずひと)親王、父は後伏見上皇(1288年ー1336年)、その弟が花園上皇だから、光厳上皇から見ると叔父にあたる。祖父は伏見上皇(1265-1317年)、祖母は永福門院だ。つまり、京極派の歌人のど真ん中に生まれられたわけだ。小さいころから英才教育を受けられたと伝えられている。歌だけでなく、花園上皇量仁親王の家庭教師となられて、帝王学を授けられた。その内容を『誡太子書』という本に書かれた。

 1331年、後醍醐天皇が幕府に対して謀反を起され、破れて笠置に逃れられたので、量仁親王光厳天皇として即位された。ときに18歳であった。ところが、1333年、後醍醐天皇は勢いを盛り返して京都に攻め込まれたので、光厳天皇後伏見上皇花園上皇と一緒に、六波羅探題に伴われて都落ちをなさり、番場の宿での悲劇に遭われ、捕らえられて廃位された。

 1336年、足利高氏が京都を取り返し、後醍醐天皇は吉野に逃れ、光厳上皇の弟の光明天皇(1322年-1380年)が即位された。短い平和の期間があって、この間に『風雅集』が編纂された。光厳上皇の祖父の伏見上皇が、『玉葉集』の他に、もうひとつ京極派の和歌集を編纂するようにと言い残されて亡くなられたのだそうだ。その遺言をうけて、光厳上皇花園上皇も、きわめて勢力的に仕事をされたようだ。

 1351年、足利氏内部で紛争が起こり、その隙に、光厳上皇と、退位された光明上皇と、新しく天皇になられた崇高天皇(1334年ー1398年)が、南朝方の北畠親房に捕らえられて、吉野の賀名生(あのう)というところに拉致された。1352年、39歳の光厳上皇は賀名生で出家をなさり、やがて孤峯覚明という臨済宗の禅僧の弟子となって、雲水として戦没者を慰霊する旅に出られた。これはちょっとすごいことで、元天皇が乞食坊主になってただ一人で国々を回られ、死者たちの慰霊をされたのだ。最後は、1364年、山城国常照寺という、京都をはるかに離れた山の中の寺で亡くなられた。享年51歳。

 謝有為報 披無相衣 経行坐臥 千仏威儀

という遺偈を残された。「人としておれることに感謝しつつ、空性を身にまとって日々の暮らしをしてきたが、それは仏さまの暮らしそのものだった」というような意味だろうか。

 さむからし民のわらやを思ふにはふすまの中の我もはづかし  光厳院

 『風雅集』にある歌だ。「寒かろうな、民の藁屋を思うと、ふすまの中で暮らしている私は恥ずかしい」というような意味だろう。『誡太子書』に、次のような一節がある。

  あなたは召使いの間で育ち、民がどんなに困っているかを知りません。いつもきれいな服を着ていますが、それを紡ぐ苦労を考えたことがありません。いつもご馳走をたくさん食べていますが、耕す苦労を思ったことがありません。国についてはいままでになんの功績もありませんし、民についてはほんのわずかの恩恵もほどこしたことがありません。ただ祖先が天皇だったというだけのことで、天皇の仕事ができるだろうと思っています。それは、徳もないのに間違って大臣たちの上に立ち、功績もないのに庶民の上に立とうとすることです。そういう自分を恥ずかしく思ってください。
  太子は宮人の手に長じ、未だ民の急を知らず。常に綺羅の服飾を衣(き)、織紡の労役を思ふこと無し。鎮(とこしな)へに稲梁(とうりょう)の珍繕に飽き、未だ稼穡(かしょく)の艱難を弁(わきま)へず。国に於て曽(かつ)て尺寸の功無く、民に於て豈に毫釐(ごうり)の恵み有らんや。只だ先皇の余烈と謂ふを以て、猥りに万機の重任を期せんと欲ふ。徳無くして謬(あやま)りて王侯の上に託し、功無くして苟(いや)しくも庶民の間に莅(のぞ)む。豈に自ら慙(は)じざらんや。

 量仁親王はこの教えを正面から受け取られた。しかし、ご自身が天皇であるときには、実権はなにもなく、願うことがなにもできなかった。無理矢理に退位させられ、やがて山奥に拉致されたとき、きっとこの言葉を何度も何度も反芻されたのだと思う。そうして出された結論が出家だった。出家といっても、形式的に頭を丸めるのではなくて、破れ衣を身にまとって、托鉢によって得たわずかな食べ物をいただき、ご自分にできることをして暮らされた。そうしながらも、いつも「自らに慙じて」おられたのではあるまいかと拝察する。いいえ、慙じることなどまったくございませんよ。あなたは、あなたにできることを、ほんとうに精一杯なさったのです。

  夕日かげ田のもはるかにとぶ鷺のつばさのほかに山ぞくれぬる  光厳院

 これも『風雅集』にある歌だ。「夕日はかげって、田の上空をはるかに飛ぶ鷺の翼はまだ白く耀いているが、そのほかの山は暮れてしまった」というような意味だ。この、ひとり空高く飛んでいる鷺は、光厳上皇ご自身のお姿であるように、私には思える。世の中がどんなに暗くても、ひたすら自分にできることを考えて、それを実行して生きて行く。かつてそういう天皇がおられたことを、私たち日本人は誇りに思うべきだし、私たち自身もそのように生きて行ければと思う。こういう方のことは、学校で教えてほしいなあ。

短歌と瞑想(2)

 仏教の教えを詠った歌を釈教歌という。昨日、京極為兼の釈教歌をひとつとりあげたが、世の中に釈教歌ほど面白くないものはないことになっている。それは私も賛成なのだが、せっかくひとつ紹介したので、調子に乗ってもういくつか書いてみる。『風雅集』の釈教歌の章に、

  燕鳴く軒端の夕日影消えて柳に青き庭の春風  花園院

という歌があって、これは、面白くないどころではなくて、叙景歌として見て絶品だと思う。あまりに平明だから、現代語訳の必要はないよね。「柳に青き」という言葉がすごいなと思う。

 ところが、詞書を見ると、法華経薬王菩薩本事品の「是れ真の精進なり、是を真の法をもって如来を供養すと名づく」にちなんで詠んだと書かれている。薬王菩薩は、チベット人焼身供養のモデルになっていると思うのだが、自分の体に火をつけて仏を供養した人だ。

 花園上皇はご自身が戦場に出られ、味方が全滅して敵方に捕らえられた経験をもっておられる。『太平記』巻第九「越後守仲時以下自害のこと」に詳しい記述があるが、名文ではあるが冗長なので、平泉澄先生の解説文を引く。

  それは元弘3(1333)年5月9日のことであった。京都の戦いに敗れた(鎌倉)幕府の軍勢は、六波羅南方探題左近将監時益戦死の後、北方探題越後守仲時にひきゐられ、光厳院後伏見天皇花園上皇御三方を奉じて、遠く鎌倉に走り、幕府の主力と一緒になって決戦をしようとして、東山道をいそぎ、漸くにして是の日、番場の宿(現在は滋賀県米原市)に入った。その兵わづかに7百騎にも足らぬ小勢である。しかるに意外の強敵あつて、番場の宿を四方より包囲し、一軍、袋の中の鼠となつた。

  (中略)六波羅勢は激戦して血路を開かうとした。しかし官軍は目に余る大軍であつて、しかも疲れを知らぬ新手であり、あたかじめ見立てて、地の形勢を利用してゐるのに対し、味方は連日の戦に疲れ果てたる小勢、うつかりして袋の中に入り、摺鉢の底に陥った形である。勝敗の運命、今は明瞭となつた時、司令官である越後守仲時、軍勢共に向かつていふやう、「武運漸く傾いて当家の滅亡、近きにあるべしと見給ひながら、弓矢の名を重んじ、日来(ひごろ)の好(よしみ)を忘れずして、是まで付纏(つきまと)ひ給へる志、中中申すに詞なかるべし、其報謝の恩、深しといへども、一家の運すでに尽きぬれば、何を以てか是を報ずべき、今は我れ、かたがたの為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずるなり、仲時不肖なりといへども、平氏(北条氏)一類の名を汚せる身なれば、敵共定めて我首を以て、千戸侯にも募りぬらん、早く仲時が首を取つて、源氏(足利氏)の手に渡し、咎を補うて、忠に備へ給へ」。かやうに云ひも果てず、鎧をぬぎ、腹かき切つて伏したのを見て、従ふ者共いずれも感激に耐へず、我も我もと腹を切つて之に殉じ、その数、すべて432人に及んだといふ。(平泉澄『山河あり』錦正社,pp.267-268)

 こうして花園上皇は足利方に捕らえられ、京都に帰られた。こういう体験を踏まえて法華経薬王菩薩本事品を読誦され、さらにその感想として上の歌を詠まれたのだとすると、なかなか鬼気迫るものがある。「私の供をした侍たちは、彼らの大義の為にみんな死んでしまった。それでも仏の世界には燕も鳴き、陽は昇って沈み、春になれば柳も青くなり、それを風が吹き返しもする。これが彼らの精進に対する仏のお答えなのであろうか」という感じかな。

 釈教歌をもうひとつ。

  今日はこれ半ばの春の夕霞消えし煙の名残とや見ん  伏見院

 これは『玉葉集』に収載されている。伏見上皇花園上皇の父君で、南北朝の動乱の前に崩御されているが、それでも身辺に血なまぐさい事件があった。たとえば、正応3(1290)年、浅原為頼ら3人の武士が騎馬で御所に侵入し、天皇の暗殺を謀った。浅原はお付きの女性を捕まえて天皇の寝所を尋ねたが、お付きは、別の場所を教えたので、その隙に天皇は女装をして三種の神器と秘伝の管弦をもって脱出され、一命をとりとめた。背後関係はよくわかっていないのだが、伏見天皇持明院統で、大覚寺統の皇統と対立があったし、鎌倉幕府とも折り合いが良くなかったので、そのあたりが黒幕だと思われている。

 この歌には「二月十五日涅槃の心を詠まれ給ひける」と詞書が付いているが、実はそんな穏やかな話ではないかもしれない。お釈迦さまではなくて、誰か知人の死を悼んだものだと読めないこともなく、しかもその知人は尋常の死ではない死に方をしたのだと思えてくる。本当のことをあからさまに書けない事情があって、わざと涅槃会にことよせたのではあるまいか。このあたりは『増鏡』あたりを丁寧に読み解けばあるいはわかるかもしれない。ともあれ、見かけほどのどかな歌ではなさそうだ。そうだとすると、「今日は春の半ばで夕霞が出ているが、あれは無念の内に殺された友を焼いた煙の名残だと思って見よう」という意味になって、かなり恐い。

 昨日まで話題にしていた京極為兼伏見上皇花園上皇の歌の師匠であるが、彼の一生も平穏だったわけではない。皇位継承問題などのトラブルで鎌倉幕府に睨まれて、佐渡に流刑になり、一旦は帰京したが、後に再び土佐に流刑になっている。なんでも佐渡の配流先で、

  鳴けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす  京極為兼

と詠んだので、その言霊で、そのあたりではホトトギスは鳴かなくなったのだとか。どの人も、歌は静かだが、生涯はなかなかたいへんだったみたいだ。

短歌と瞑想

 短歌の話の続きをする。むかし書いたシリーズをすこし校正したものだ。主題は『玉葉集』と『風雅集』の歌で、実際に書いたのは、この前のシリーズのすこし後の、2016年05月18日からしばらくの間だ。この前と同じように、いまの気分ですこし付け加えたりする。

 さて、『玉葉集』と『風雅集』は、『新古今和歌集』よりも後の、南北朝時代勅撰和歌集で、他の歌集とは傾向がまったく違っている。それは、京極為兼という人が和歌の改革運動をして、それまでの和歌とは違う、写実的といわれている(後で述べるけれど私はあまり信じていないが)作風を提唱したのだが、彼が撰者となって『玉葉集』と『風雅集』を作ったので、その方向で和歌が選ばれているからだ。彼は、「言葉でもって対象を詠もうとするのと、心のままに言葉が匂いゆくのとでは、違うところがあるものだ。(こと葉にてことをよまむとすると、心のまゝに詞の匂ひゆくとは、かはれる所あるにこそ。)」と書いているが、彼の立場は、「心のままに言葉が匂いゆく」方で、「言葉でもって対象を詠もうとする」という方を排撃している。つまり、自分とは別に対象物があって、それを言葉で詠もうとするのではなくて、対象物を見ている心がそのままに言葉となって「匂いゆく」ことで、おのずから和歌になるのがいいという主張だ。理屈を捏ねる前に、実例をひとつあげる。

  沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峰

 「夕日が沈みきってしまうそのぎりぎりの時間にあらわれてきたのは、遠くに霞んでいる山のまだ奥にある峰だ」という意味だ。この歌の特徴は、中心になる対象がなくて、見えている風景全体を詠んでいることだ。この歌だけでなくて、同じ趣向の歌はたくさんある。

  枝にもる朝日の影のすくなさに涼しさふかき竹のおくかな

 「枝から漏れてくる朝日の影がすくなくて涼しさがいっそう深い竹藪の奥の(わが家)だなあ」というようなところか。これも、どれが中心になる対象かわからなくて、風景全体が同時に詠まれている。

  月のぼる峯の秋風吹きぬらし麓の霧ぞ色くだりゆく

 「月が昇る峰には秋風が吹いているらしい。麓の霧の色が次第に下の方へ降りていく」というような意味か。これもいったいどれが風景の中心かがわからない。こういう例は、彼以前には無い。もっとも、皆無かどうかは国文学者ではないので網羅的に調べたわけではないけれど、きわめて希であることは確かだ。

 なぜ彼はこのような歌を詠む気になったのだろうか。それは真言密教と関係があるのだと言われている。弘法大師空海は次のように書いている。

  究極の法身である寂光の如来は、自分と対象を分ける分別知を超えて心の本質を見ておられますが、衆生を救済する菩薩は、誓願によってあたかも外界の対象物であるかのように姿を顕わされます。究極の存在である法身はひとつであり、同時に多様な菩薩でもありますし、個々の菩薩は多様ですが、同時に究極の法身です。それは、澄んだ水がものを写すようなものですし、黄金の玉が姿を写すようなものです。水や黄金はすなわち影であり、影はすなわち水や黄金です。すなわち対象はそのままに般若の智慧であり、般若の智慧はそのままに対象です。ですから(唯識説では)「対象は無くただ識だけがある」と言います。これが「自分の心を如実に知る」ということの意味であり、これを菩提と名づけるのです。
  寂光如来融境智而知見心性。応化諸尊願行願而分身隨相。寂而能照。照而常寂。似澄水之能鑒。如蛍金之影像。湿金即照影。照影即金水。即知境即般若般若即境。故云無境界。即此如実知自心名為菩提。(空海『秘藏寶鑰』一道無為心)

 ここは『法華経』についての説明なのだが、唯識説を援用して悟りの境地を説明している。密教瞑想をして菩薩をお呼びすると、あたかも実在するかのように菩薩はありありと現前される。しかしそれは幻影である。つまり、心の産物である。そうであるとすると、逆に、日常見ているものも、実は実体性はなくて心の産物であるのではないか。つまり、ただ心だけがあって、それが夢のように世界を創り出しているのではあるまいか。そうであるとすると、自分の心と、その心が見ている対象とは実は同じものであり、心が澄んでおれば対象は澄んで見え、心が濁っておれば対象は濁って見える。この世が地獄であるとすれば、それはおのれの心が濁っているからであり、おのれの心が澄めば、この世はそのままに浄土となるはずだ。実際に、瞑想によって心を澄ませていくと、次第に世界の見え方は変わって、美しいものも醜いものも、好きなものも嫌いなものも、すべてが「寂光如来」のおん光に包まれていく。そうして世界は、世俗の美しさとはランクの違う瞑想的な美しさの中にあることが実感できる。京極為兼が、「心のままに言葉が匂いゆく」と言うのは、瞑想によって心を澄ました状態にして世界を見たときに、自然と歌が言葉となって現れ出る境地のことを言っているのだと、私は思っている。

 『万葉集』の歌、なかんずく読人不知の歌、が仏教以前のゲマインシャフトにおける集団の歌謡であったとするなら、『玉葉集』や『風雅集』の歌は、仏菩薩と信者たちが作るマンダラ世界というゲマインシャフトにおける賛歌なのだということができる。それは、近代文学的な意味での叙景歌ではなくて、瞑想の中から自然に湧きでた祈りの歌であって、主な聴衆はマンダラの仏菩薩なのだ。

 鎌倉時代のその時期のことを考えると、短歌に関してはその前後の時代とはまったく雰囲気が違っている。『玉葉集』と『風雅集』だけが、全勅撰和歌集の中できわだって「印象派風」なのだ。印象派などという言葉を使うのはやや不用意かもしれないが、西洋美術史の文脈で言うなら印象派にいちばん似ている気がする。しばらくそのあたりを見てみる。

小休止

 まだもうちょっと書くことがある気もするが、ここらあたりで小休止をする。短歌や古典の話はしばらくお休み。

 先週は、月曜日は訪問介護士さんが来て介護してくださった。火曜日・水曜日は予定がなかった。木曜日は学会のスタッフが2人やってきて夕食を一緒に食べた。金曜日と土曜日は予定がなかった。日曜日は姪(私の弟の娘)とその連れ合いがやって来て楽しくおしゃべりをした。そして今日は月曜日で訪問介護士さんが来てくださった。火曜日・木曜日・日曜日が私の炊事当番の日だった、だいたいこんな風にして毎週が過ぎてゆく。

 近所のスーパーマーケットまで一人で行ってよいことになった。しばらく様子を見て、「川向こう」にあるもう一軒も一人で行けるようになる予定だ。外出先はそれくらいかな。これから暑くなるし、外出はひかえ気味になりそうに思う。

短歌について(7)

 昨日の結論、すなわち、「あの時代の人々みんながそこ(日本の「こころ」)に戻って考えていたなら、戦争はまったく違った展開になっていただろう」というのは、わかりにくいかもしれない。満州事変・支那事変から大東亜戦争にかけての時代には、複数の思惑がもつれあいながら展開していた。ひとつは日本の「こころ」にもとづくアジア解放の願いで、これは確かに存在した。ひとつはアジア征服の帝国主義的野望で、これが存在したことも否定できない。ひとつは、日本共産化の目論見で、これも確実に存在した。これらが複雑にからまりあっていたのだが、帝国主義共産主義は西洋近代文明の産物で、日本の「こころ」とは関係がない。そういう部分がなければ、日本は違った行動をしていただろう。中国大陸奥地への侵攻もしなかっただろうし、英米相手の開戦もしなかっただろう。それで日本が栄えたか、あるいは滅びたか、私にはわからないが、とにかく違う挙動をしただろう。あの戦争の論理的根拠になったのは、日本の「こころ」とは無縁の、日本が輸入した西洋近代思想なのだ。

 子規万葉ぶりの末裔である斉藤茂吉や『アララギ』の歌人たちの多くは戦争に賛成であった。どうしてそうだったかについて、保田與重郎は次のように書いている。

  アララギの一時代前の人々の考へ方としての写生は、要するに人為人工を以て、自然の真実に至るといふにあつたが、このゆくところ、一種の支配となり、自然への小ざかしい侵略を意図しつゝ、なほ結果的には、一種の文学的文様化、形式化にならざるを得ぬ。(中略)アララギの一時代前の人々、何時の日にも文学者と云ひうる人々の場合に於て、その写生説のもつ、自然に対する不遜なヒユマニズムの主張が、写生を云ひ、観察を云ひつゝ、それらを行へば必ず気づく筈の謙虚さが、ほとんど喪失している状態を指摘するにある。(中略)彼らが別個の俗なヒユマニズム観念を新しく提出したといふだけのことを、芸術の理論上では、さほどに革命的なものとして肯んじ得ない、といふ意味である。且つ、その心情について、神と共にある詩及び詩人の立場、総じて文学の立場から反対するのである。(保田與重郎『日本に祈る』新学社,pp.208-209)

 わかりにくい言い回しだが、次のように整理できるかな、1)『アララギ』の歌人たちが言うところの「写生」は、実は人間中心主義(ヒューマニズム)であり、西洋近代思想にもとづくものである。2)つまり、彼らは「神なき人々」である。3)彼らの作品は、西洋の近代絵画と同じ位置にあって、自然の侵略であり自然の支配であり、自然との共存ではない。4)元来、日本の伝統文学は神とともに生きる者が神とともにおこなう営みであって、そういう立場から『アララギ』のあり方は非日本的である、ということだろう。

 そうであったからこそ、たとえば斎藤茂吉軍国主義者、あるいは社会主義者にたやすく「だまされて」、戦争賛美の歌を詠うことができたのだろう。もっとも、戦後に茂吉やその他の「戦争協力者」たちを批判した勢力も、同じように人間中心主義者であったので、同じ穴のムジナだ。その人たちは保田與重郎をも「戦争協力者」として批判しているのだが(たとえば杉浦民平)、茂吉と保田を同列に述べること自体が、彼らの遠近法がいかに狂っているかを証明している。保田は、日本の「こころ」の立場から、つまり伝統主義の立場から、天皇陛下が戦をするとおっしゃるなら民としては戦うしかないと覚悟して、

  いづことてわが大君のしろしめすみいくさなりきおもふことなし

と詠んだわけだし、「されば我らは言挙せずに、時々刻々の皇御軍(すめらみいくさ)に仕へ奉るのみである」(『校訂 祝詞』)とも言った。しかし一方では、反近代主義の立場から、帝国主義的野望に反対して、

  かくまでにますらたけをのいのちおもふきびしき道をしろしめすらむ

と詠んだわけだし、「我々は戦争の言挙に奔走してはならぬのである。さうしたことは、崩壊する国の文化人の、その日暮しの暮し方である」(前掲書)とも言ったわけだ。戦時中は後者が理由で軍部に睨まれて懲罰徴兵されてしまったし、戦後は前者が理由で「戦争協力者」と批判された。戦時中に保田を批判していた勢力と、戦後に保田を批判した勢力は、同じ論理にもとづいていて、どちらも西洋近代思想の信奉者であり、神とともに生きる人々ではなく、自然や社会の支配をもくろむ人々であった。これに対して、保田は、大衆がどのように言おうが、それとはかかわりなく、神とともに生き、「八百萬(やおよろず)の神々を信じてゐる。しかも信ずるとさへ言挙げせず、その神々の天恵に万古不動の信頼を持してゐる」(前掲書)生活を維持しようとしていた。

 戦時中の保田與重郎の立場は、きわめて微妙だった。彼は西洋近代主義を批判していた。それはまず、マルクス主義だったのだが、それを換骨奪胎した国家社会主義(いわゆる超国家主義)にも反対していた。美濃部達吉天皇機関説近代主義だから反対していたし、それを糾弾していた蓑田胸喜のような狂信的な復古主義者にも反対していたし、『近代の超克』を唱えるいわゆる京都学派にも反対していた。当時の神道にも批判的だったし、キリスト教にも反対だったし、既成仏教にも反対だった。つまり、右であれ左であれ、当時の主流思想すべてを批判していた。その中には、西洋的な意味での民主主義や平等主義や人命尊重思想や自由主義も含まれていたので、戦時中であれ戦後であれ、彼を批判するのはきわめて簡単だった。しかし、どの批判も当たっていない。

  創造といふ思想は、従って唯物論と合理主義の反対のものである。又科学主義とも反対のものである。我々の努力を神がみそなはすと信ずるか、それを信じないか、その二つの一つである。(保田與重郎「言霊私論」石川公彌子『〈弱さ〉と〈抵抗〉の近代国学講談社選書メチエ,p.108)

 ここで「創造」と言われているのは、まずは生産活動である。ただし、農業などの「天恵生産」にかぎられており、たとえば「人為人工」の工業生産はそれに含まれない。天恵による生産に従事するのが人間の喜びであり、それ形にしたものが祭であって、そこに歌が生まれる。だから、創造には、祭や文芸や音楽や絵や、その他さまざまの芸能も、天恵生産に連続したものとして含まれる。それが保田の理想世界の生活なのだ。つまり、彼は純粋な宗教思想家であって、世俗思想すべてにたいして批判的だったし、世俗思想の論理でもって批判できるような思想家ではなかったということだ。ある程度、ユダヤ預言者に似ているし、その連続線上でアドラーとも似ていると思う。

 不幸なことに、保田は戦争の時代を生きなければならなかった。戦争の時代にあって創造とは何なのか、「神がみそなわす」暮らしとは何なのか。保田がたどりついた結論は、次のようなものだ。

  皇軍の本質とは何かといへば、大命たゞ一途にあることである。死を察して命を下し、死を思はずに命を受ける。すなはち生も死も考へてゐないといふ神厳無双の士気である。(保田與重郎「憤激の心を己に見定めよ」前掲書,p.129)

 保田は戦争に賛成だったわけではない。それは西洋近代思想に毒された国家が引き起こした大悪事だ。「正義の戦争」などというものは存在しえないので、すべての戦争は悪だ。だから、戦争はすべきではない。しかし、天皇がそれを裁可したかぎりは、神々が戦うことを選ばれたのだから、国民は総力をあげて戦わなければならない。勝つか負けるか、生きるか死ぬかは、問題ではない。ただ自分に与えられた職務を忠実に果たすことが「神がみそなはす」創造的な暮らしだ。それは、平時の生活において、生きるか死ぬかが問題でなく、ただ自分に与えられた職務を忠実に果たすことが「神がみそなはす」創造的な暮らしであることと、まったく同じことだ。「されば我らは言挙せずに、時々刻々の皇御軍(すめらみいくさ)に仕へ奉るのみである」と彼が言うときの「すめらみいくさ」とは、戦時だけでなくて、平時の生活もまた含まれているのである。

 この思想は、国民に死ぬように勧めたとされて、戦後に厳しく批判される。もし保田が国民に「死ぬように」勧めているとすれば、同時に「生きるように」勧めてもいる。「死なぬように」行動すれば、「神がみそなはす」暮らしからはずれて、自分の「わたくし」を優先することになる。最大限、「生きるように」努力すべきだが、最悪の場合「死んでもよい」と覚悟するしかない。保田が言っていたのはそういうことだと、私は理解している。しかし、これは容易に誤解される思想であるし、悪用しようとすればいくらでも悪用できる思想だ。

 それでも私が保田與重郎にかぎりない魅力を感じるのは、人間を疎外し道具化してしまう西洋近代思想に対する根源的な批判になっており、人がどのように生きればいいかについての示唆を豊富に含んでいるからだ。彼はそれほどはっきりした未来図を描いてくれない。それは仕方がないので、誠実に生きてみるしかよりよい未来に到達する方法はないのだ。先に未来図が見えているなら、それは西洋近代思想にもとづく設計主義でしかない。
  四方の山ひかりにみちぬうつそみにかなしきものは一つなりけり

 このひとつの「かなしきもの」とは何なんだろう。なんであれ、「かなしきもの」(それが「愛しきもの」であれ「悲しきもの」であれ)とともに生きるのが人の暮らしであり、それを忘れると、どんなに豊かな暮らしをしても、人は不幸になると私は思う。天恵の光に照らされながら、しかも「かなしきもの」を抱いて暮らす、陰翳のある暮らしが日本人の暮らしであり、その美しさの中で私も生きて死にたいと思っている。

短歌について(6)

 保田與重郎が言う「こころ」と「ことがら」の違いをもう少し考えてみる。

  開戦の朝の電車に知る知らぬ引き締まりつつ静かなる顔  阿部鳩雨
  宣戦のビラに痺(しび)れしごとき街今朝の静けさかつて見ざりき  平井乙麿

 どちらも日米開戦を詠った歌だ。短歌や詩を離れて、散文として読むなら、前者にはほとんど「客観」だけが語られていて、後者には「主観」がかなり混じっている。たとえば、前者の「(顔)引き締まりつつ」は作者だけの主観ではなくて、そこにいた人がみんな感じたであろう客観的なできごとであり、後者の「痺れしごとき」とか「かつて見ざりき」は、かならずしも客観的できごとではなくて、作者固有の主観的判断だと思う。

 では、ほとんど客観だけでできた前者が「ことがら」の説明なのかというと、そんなことはないように思うし、主観をまじえた後者が「こころ」を述べることをもっぱらにしているかというと、けっこう「ことがら」の説明をしているように思う。そういうことも踏まえて両者を比較してみた結果、私は、歌としては前者の方が格が上なんじゃないかと思う。これはわかりにくい話かもしれない。極端な例をあげてみる。

  何なれや心おごれる老大の耄碌(もうろく)国を撃ちてしやまむ  斎藤茂吉

 これは散文でいうところの「主観」だけでほとんどできた歌だ。しかも、アドラー心理学風に言うなら、「意見」であって「事実」ではない。意見は「こころ」ではなくて、保田の言い方だと、「ことがらの説明」であるにすぎない。そう考えると、この歌は、主観を述べているのに「こころ」はほとんど述べられていない。

 「宣戦のビラに痺れし」の歌で、もっとも弱いのが「かつて見ざりき」という部分だ。これは「心おごれる老大の耄碌国」と同じレベルでの「意見」であり、「こころ」そのものではない。「開戦の朝の電車に」の歌には、こういう弛みがない。しかも、ただ事実をありのままに述べているのではなくて、その風景を見た作者の精神の動きを美しく言葉に結晶させている。つまり「もののあはれ」を詠いおおせているということだ。

 別の言い方をすると、「個人の気持ち」を詠っているか「共通のこころ」を詠っているかの違いだと思う。「何なれや心おごれる」の歌は作者個人の気持ちを詠んでいて、「開戦の朝の電車に」の歌は「日本人のこころ」全体につながっていて、「宣戦のビラに痺れし」の歌はその中間だということだ。「開戦の朝の電車に」の歌は、日本人の歴史の中にある「歌のこころ」が作者の口を借りて詠いだした歌であり、個性を超えて民族の魂の声だと思うし、「何なれや心おごれる」の歌は作者の個性の声であって、かならずしも民族の魂につながっているものではないかもしれないと思う。別の言い方をすると、大伴家持紀貫之が評価するのはどの歌かと考えると、それは間違いなく「開戦の朝の電車に」だと思う。彼等は電車は知らないだろうけれど、戦争が始まったときの人間についてはよく知っているだろうから。

 本居宣長は、このあたりのことを、

  歌の道は、善悪についての道徳的な議論を捨てて、「もののあはれ」ということを知るべきだ。(中略)この外に特別の理屈があるわけではない。
  歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ(中略)外ニ子細ナシ。(『あしわけ小舟』)

と、きわめて簡潔に述べている。その「もののあはれ」なるものがなんであるかについての保田の説明が「ことがら」と区別した「こころ」であり、私の説明が、家持や貫之と共通の、いかにも日本人らしい共通の心情のことなのだが、これは散文でダラダラ説明すべきことではなくて、そう思ってたくさんの作品を読むことで次第にわかってくるたぐいのことだろう。

 もうすこし続ける。日米開戦に関する歌で、

  人間の常識を超え学識を超えて起これり日本世界と戦ふ  南原 繁

というのがある。これは開戦に反対しているのだと思う。これにたいして、昨日紹介した、

  何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてしやまむ  斎藤茂吉

は日米開戦に賛成する歌だ。意見の方向は180度違うのだけれど、いずれも作者個人の意見であって、日本人共通の「こころ」ではないという点では共通している。

 こんなことを言うと、「しかし、開戦当時の日本人の多くは、これらの歌と同じように考えていたのではないか?」と問い返されるかもしれない。それはその通りだと思う。多くの人たちは斎藤茂吉のように考えていたし、一部の人たちは南原繁のように考えていただろう。どちら向けの意見が多かったにせよ、それはその時代の多数決であって、それ以上のものではない。

  科学の真理は数では決められぬ 心のまことも数では決められぬ
  地球の未来も数では決められぬ 愚者の多数が世界を破壊する

と『共同体感覚の歌』に書いたけれど、時代の多数決を私はそれほど信じていない。それはたかだか「善悪ノギロン」の結果であり、「ことがら」であり、頭が考えたものであって「こころ」の声ではない。では、いったいどうすれば「こころ」の声を聴くことができるのだろうか。そのために、たとえば短歌があるのだと、私は思っている。芸術は「善悪ノギロン」のためにあるのではなく「こころ」を見つけ出すためにある。理性ではなく直感でもって、日本人の「こころ」に迫るのが、短歌の役割だ。

 このように考えたのが、たとえば本居宣長だが、宣長は『源氏物語』を文学の典型だと考えている。光源氏の女性関係を主題にした物語には、儒教的な意味での善悪の観念はない。それは『平家物語』だって『太平記』だってそうなので、勧善懲悪的な要素はまったくない。源義経は誠実に兄頼朝のために戦ったのに殺されてしまうし、忠義の人楠木正成は逆賊足利尊氏に負けてしまう。そこに作者あるいは読者は、「もののあはれ」を感じ取ったわけだ。文芸の中に勧善懲悪的要素が混じり込んでくるのは江戸時代に儒学が盛んになってからで、宣長はそのことに反発して、「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ」と書いているわけだ。

 保田與重郎がいた時代には、プロレタリア文学というものがあって、政治的な意見を文学的な言葉で言いあらわそうとしていた。あるいは逆に、国粋主義的な意見を文学的な言葉で言いあらわそうとする人たちもいた。保田は、それら双方に対する反発として日本浪曼派を立ち上げたわけで、だから幾分ムキになって、「善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事」にこだわっているところもある。保田の文学論については反論もありうる。ありうるが、西洋文芸およびその影響を受けた明治以後の文芸をひとまずカッコに入れて、日本文芸の歴史だけを考えるならば、保田の方が正統派だと思う。短歌であれ小説であれ戯曲であれ、道徳的あるいは政治的な意見を書くものではなく、ひたすら「もののあはれ」を描くものだと宣長は言うし、その延長線上に保田は居たいと思っていたようだし、私自身もその延長線上に居ることに意味があると思っている。

 南原繁の歌も斎藤茂吉の歌も「善悪ノギロン」をしているだけで、「モノノアハレ」とかかわりがない。だから、民族の「こころ」については、何も教えてくれない。ただの政治的なプロパガンダであるにすぎない。では、保田與重郎は戦争中はどうしていたのだろうか。

  人多くけふも死にたり雪どけの時のうつりのあわたゞしくも
  生き死にの定め一つときゝゐしがゆゝしき時にあひにけるかも

 つまり、政治的ないし道徳的な意見はなにも述べず、ただ人が殺されていく時代の「もののあはれ」を詠っている。これが日本 民族の「こころ」であって、あの時代の人々みんながそこに戻って考えていたなら、戦争はまったく違った展開になっていただろう。

短歌について(5)

 短歌の話をもうすこししよう。保田與重郎歌人山川京子氏に送った手紙に、次のような一節がある。

  それからうたでことがらの説明をして、ことがらを人に理解してもらはうと思ふのは間違つてゐます。ことの説明弁解をせずたゞうたをうたひ、主にこころをのべることです。うたとことを両立同時にあらはさうと欲ばるのはいけません。(保田與重郎『木丹木母集』新学社,p.163)

 「ことがら」と「こころ」が二項対立的に扱われているのだが、昨日までにわかったように、「こころ」とは「ことば」であるとすると、「ことがら」というのは「ことば」ではなくて、一種の迷信として、「ことば」とは無関係に存在すると思い込まれている「客観」のことだろう。アドラー心理学風に言うならば、「こころ」の方が事実で、「ことがら」の方が意見だ。なぜなら、仮想論が教えるように、人を動かしているのは「こころ」であって「ことがら」ではないからだ。

 実例として大東亜戦争の時代の戦時詠をとりあげてみる。

  陸揚の私有物品其の中に使ひ残りし銭も入れたり  佐藤寛一
  生きて再び逢ふ日のありや 召され行く君の手をにぎる 離さじとにぎる  下田基洋子

 どちらも戦時詠で、前者は真珠湾攻撃に向かう海軍の兵隊が詠んだ歌で、「陸揚」というのは、出撃前に艦の重量をすこしでも軽くするため不要品を陸に揚げることだそうだ。後者は夫を戦争に送り出す妻が詠んだ歌だ。われわれ自身の鑑賞はひとまずカッコにいれておいて、大伴家持なり紀貫之なりにこれらの歌を見てもらって、評をもらうとする。前者については、前線にいる「防人」の歌であることを言い添えるとすれば、二人とも圧倒的に前者がいい歌だと言うと思う。これらの歌は、菅野匡夫『短歌で読む昭和感情史』(平凡社新書)からの引用だが、そこには後者について次のように解説されていた。

  出征兵士の妻の歌である。(中略)一読して、実によく分かる悲痛な叫びの歌だ。(中略)しかし、何度も音読していると、この歌は、すべてを言いつくしていて、それ以上の暗示や含意がないのが気になってくる。それに詠い方もくどくはないだろうか。「召されゆく君の手をにぎる離さじと握る」だけで、妻の悲痛さが十分に分かる。「生きて再び逢ふ日のありや」とまで言う必要があるのだろうか。(p.28)

 いまの言い方で言うと、前者は「こころ」を詠ったものであり、後者は「ことがら」を詠ったものであるということだ。あるいはアドラー心理学の言い方で言うと、前者は「事実」を描写しているメッセージであり、後者は「意見」を述べているメッセージだ。つまり「切実さ」に大きな違いがある。

 そう思って保田與重郎の戦場詠を読んでみる。

  死なずして軍病院の庭に見し夏のカンナのなごりの紅さ
  春浅き軍糧城の庭に咲く木瓜の花見つつ山下りきて

 前者には「右一首、昭和二十年春の終り石門軍病院に入院、其秋退院す。春夏の頃病篤く死に瀕する事再三也」、後者には「右一首、氷点下の大行山峡を下りて天津に入りしは昭和二十一年三月也」と、詞書がある。これらもまた、家持も貫之も認めてくれるいい歌だろう。このあたりのことが見えるようになると、心理療法ができるようになる。それくらいの「ことば」の、あるいは「こころ」の力が要る技術なのだ。

 保田與重郎が言う「こころ」と「ことがら」の違いをもう少し考えてみる。

  開戦の朝の電車に知る知らぬ引き締まりつつ静かなる顔  阿部鳩雨
  宣戦のビラに痺(しび)れしごとき街今朝の静けさかつて見ざりき  平井乙麿

 どちらも日米開戦を詠った歌だ。短歌や詩を離れて、散文として読むなら、前者にはほとんど「客観」だけが語られていて、後者には「主観」がかなり混じっている。たとえば、前者の「(顔)引き締まりつつ」は作者だけの主観ではなくて、そこにいた人がみんな感じたであろう客観的なできごとであり、後者の「痺れしごとき」とか「かつて見ざりき」は、かならずしも客観的できごとではなくて、作者固有の主観的判断だと思う。

 では、ほとんど客観だけでできた前者が「ことがら」の説明なのかというと、そんなことはないように思うし、主観をまじえた後者が「こころ」を述べることをもっぱらにしているかというと、けっこう「ことがら」の説明をしているように思う。そういうわけで、私は、歌としては前者の方が格が上なんじゃないかと思う。これはわかりにくい話かもしれない。極端な例をあげてみる。

  何なれや心おごれる老大の耄碌(もうろく)国を撃ちてしやまむ  斎藤茂吉

 これは散文でいうところの「主観」だけでほとんどできた歌だ。しかも、アドラー心理学風に言うなら、「意見」であって「事実」ではない。意見は「こころ」ではなくて、保田の言い方だと、「ことがらの説明」であるにすぎない。そう考えると、この歌は、主観を述べているのに「こころ」はほとんど述べられていない。

 「宣戦のビラに痺れし」の歌で、もっとも弱いのが「かつて見ざりき」という部分だ。これは「心おごれる老大の耄碌国」と同じレベルでの「意見」であり、「こころ」そのものではない。「開戦の朝の電車に」の歌には、こういう弛みがない。しかも、ただ事実をありのままに述べているのではなくて、その風景を見た作者の精神の動きを美しく言葉に結晶させている。つまり「もののあはれ」を詠いおおせているということだ。

 別の言い方をすると、「個人の気持ち」を詠っているか「共通のこころ」を詠っているかの違いだと思う。「何なれや心おごれる」の歌は作者個人の気持ちを詠んでいて、「開戦の朝の電車に」の歌は「日本人のこころ」全体につながっていて、「宣戦のビラに痺れし」の歌はその中間だということだ。「開戦の朝の電車に」の歌は、日本人の歴史の中にある「歌のこころ」が作者の口を借りて詠いだした歌であり、個性を超えて民族の魂の声だと思うし、「何なれや心おごれる」の歌は作者の個性の声であって、かならずしも民族の魂につながっているものではないかもしれないと思う。別の言い方をすると、大伴家持紀貫之が評価するのはどの歌かと考えると、それは間違いなく「開戦の朝の電車に」だと思う。彼等は電車は知らないだろうけれど、戦争が始まったときの人間についてはよく知っているだろうから。

 本居宣長は、このあたりのことを、

  歌の道は、善悪についての道徳的な議論を捨てて、「もののあはれ」ということを知るべきだ。(中略)この外に特別の理屈がある わけではない。
  歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ(中略)外ニ子細ナシ。(『あしわけ小舟』)

と、きわめて簡潔に述べている。その「もののあはれ」なるものがなんであるかについての保田の説明が「ことがら」と区別した「こころ」であり、私の説明が、家持や貫之と共通の、いかにも日本人らしい共通の心情のことなのだが、これは散文でダラダラ説明すべきことではなくて、そう思ってたくさんの作品を読むことで次第にわかってくるたぐいのことだろう。