如来蔵(2)

 ひさしぶりに「郵便振替」を送ってきた。この前はいつだろう。いくら最近でも一昨年(2017年)のいつかだな。2018年になるとすぐに入院してしまったので、それ以後ではありえない。つまり、2018年と2019年の上半期は社会的活動は停止していたわけだ。

 社会的な運動が停止しているのは、実は見かけ上のことではなくて、本質的なことであるように思う。「一見」停止しているように見えるだけではなくて、「実際」に停止しているのではないかということだ。いやいや、世の中は激しく動いていると思い込まれているし、実際にその方がありそうに思う。しかし、そうなのかなあ。毎日コンピュータの前で仕事をしていると、実際にはなにも動いていないのではないかと思ってしまう。なにがほんとうに正しいのかは私にはわからないが、「動いている」と思って不安になるよりは「止まっている」と思って不安になる方が、どうも現実に近い気がする。

如来蔵

 古文を紹介するときに、文章をそのまま書いておいて、適宜手を入れて現代語訳するという方法がある。たとえば「さざれいしの いわをとなりて」などという文を「小石が岩になって」と逐語訳しておいて、かつ「さざれいし」だの「いわを」だのという言葉に註釈をつけてゆく。できあがりはすんなりとした現代文にはならないけれど、古文の調子を幾分かでも加味した文体になる。

 なぜこんな面倒なことをするかというと、「さざれいしの いわをとなりて」という文は、どこをどうつついても「小石が岩になって」という意味ではないし、かといって「さざれいしの いわをとなりて」という古文を離れすぎずに解釈できる範囲にはしたいものだと思うからだ。だから中途半端な現代語訳を出さないが、かといって古文のままで何とかしろということも言わないでおきたい。

 1行だけならこれでいいんだけれど、長い文章になるとこう簡単にはいかない。現実には、古文と現代文の中間あたりに新しい文章法を見つけ出す。たとえば、

  菩提心は、マハームードラによって解釈するのであれゾクチェンによって解釈するのであれ、同じ意味で使われます。『法身普賢誓願』の中に「基は一、道は二、果もまた二」とありますが、一つの基とはすなわち私たちの心(セム)の中の如来蔵を指しています。これを一本の大樹にたとえることができます。根部は深く深く大地の中に根を下ろしていますが、これを六道を輪廻する衆生に比べることができ、その上に葉や花や果実が伸びていきますが、それらを三身、すなわち法身・報身・化身の浄土に比べることができます。一つの基の共通の性質は、大海の全体にたとえることができて、仏のおかげで世界は何ものにも障碍汚染されておらず清浄なのですが、その中で衆生は我執のために固まって氷になっているのです。海と氷とは、たとえ形は違っていても、本質はすべて水なのですが、しかも同じでない状態を呈しているのです。私たちが利他の心を具備できれば、我執の氷が溶けてすなわち仏陀です。しかし自分を愛護する我執の心をもっていると、たとえ仏法を修行しても、なお輪廻の中に束縛されていなければなりません。この点に関しては『三十七の菩薩の修行』の中に、「自分の楽の結果は苦、仏は利他に生きたまう」というように説明があります。

と書かれているが、これを単に「理解する」のではなくて、毎日毎日繰り返して修業することでもって「体得する」と、単に「理解した」のとはまったく違う次元で「納得する」ことができるようになる。ちなみに私はまだですよ。遠い遠い道のかなたに如来蔵を体得するときが来るだろうことは確信するけれど、それは今年や来年のことではない。

中間語の力

 『ターラー菩薩成就法』の追加翻訳は遅々として進んでいない。理由は、原文が長すぎることだ。典礼用の文章なのでそんなに高度な内容ではないのだけれど、とにかく神秘めかしてあって、そう簡単に翻訳ができない。ええと、どう言えばいいのかな、「君が代」を現代語訳するとするでしょ、「さざれいしの、いわをとなりて」あたりが現代語にぴったりとはまらない。類似語だの相当語だのは言えるのだが、「ぴったり」という言葉にそぐわない。そういう感じだ。たぶんチベット語と英語の相性がそれほどよくないのだろう。

 やっぱりチベット語(あるいはサンスクリット)がないと、適切な翻訳はできない。やってみてつくづくと悟ったな。かといって、手元にはチベット語訳はないんだし、英訳文から翻訳せざるをえない状況だ。秋に台湾へ行く予定なので、ひょっとするとそのときに漢語版を手に入れることができるかもしれない。漢訳版は台湾で出版されているはずだ。

ターラー成就法(4)

 どうして4かということなのだが、同じタイトルでも、いままでのと出典が違っている。"TARA WHO PROTECTS FROM THE EIGHT FEARS" という英語本だ。いままでの出典はガルチェン協会が出版している『ターラー菩薩成就法』のチベット語版だ。今回読んでいるのは、そのチベット語版への註釈を英訳したもので、別の出版社から出版されている。私は残念なことにそのチベット語原文を知らない。原典に関しては、いままでのものと共通だ。ただし、そこにくっつている注釈が長い。ややこしいかな。

 いままでのものはチベット語→中国語→日本語という風にしてできていたのが、今回のものはチベット語→英語→日本語という順で進もうとしている。しかも、これまでのものに較べてたくさん注釈が入っている。ただ悲しいのは、その注釈の部分のチベット語原文はもちろん、漢訳もなくて、ただ英語だけに頼っていることだ。今度、台湾へ行く機会があるので、漢訳本がないかどうか探してみようと思っている。もしみつかれば、かなり自信を持って翻訳出版できる。

藏密氣功

 「ターラー成就法」の註釈はやめにする。読み返してみると、わざわざ書くことがない気がする。また質問があればしてください。

 そう思ったので、『藏密氣功』という中国語の本の和訳の仕上げをすることにした。著者はガルチェン・リンポチェだが、翻訳のもとにしたのは、チベット語版ではなくて漢訳版だ。それしか手に入らなかったのでしょうがない。和訳の許可をいただいて、これにとりかかった。しばらく悶着して、ようやくできあがったが、直後に発病して、作業が止まってしまった。

 最近、脳の機能が回復してきて、中国語だのチベット語だのに拒否心がなくなったので、ひさしぶり(ほぼ2年ぶり)に見直すと、すこし手を入れれば出版できそうだ。それで数日前に書き直しにとりかかり、今日いちおう完成した。これをプリントして、紙の上でもういちど見直して、手を入れて最終版を作り、印刷屋さんに頼んで製本しようと思う。一昨年に考えていたときは商業出版社に頼もうかと思っていたのだが、一般向けに売れる本ではない。だからガルチェン協会で自費出版にしてもらおう。そう思うと急に楽になって、一気に仕上げることができた。

 今夜にでもガルチェン協会に送ろう。そうすると、向こうで手直しをするだろう。もう手を入れる所もないように思うので、ミス直しくらいのことだと思う。うまくいけば八月中には出版できるんじゃないかな。本屋さんには並ばないので、ガルチェン協会で通販だ。

ターラー成就法註釈

 「ターラー成就法」に話を戻す。単に解釈ではなくて、私の個人的な註釈を混ぜ込む。だから、これを読んで実践しただけでは悟りを得ることはないでしょう。でもまあ、ないよりはマシかな。

  自身は聖母で白き胸中の|光は十方照らす護輪なり|
  BADZRA RAKSHA RAKSHA|

 ここまでタラタラ形式的な経文を唱えていた行者は、ここでいきなりターラー菩薩に変身する。いかにも仏教らしいですね。キリスト教イスラム教ではこういう過程はない。つまり、本尊は行者の前に臨在されるかもしれないが、どこまで行っても行者とは別の存在だ。ところが仏教では行者がすなわち本尊であることになっている。これは不思議でもなんでもないので、仏教の普通の考え方だ。すくなくとも「密教」ではね。

  ふたたび白光十方土を照らし|仏母と諸仏と諸菩薩招き寄せ|

 「白光」はどこから出ているか。行者からではなく菩薩から出ている。もっとも行者と菩薩はここでは区別のない一体だととらえられている。このようなとらえ方は密教になると一般的になり、仏教の瞑想イコール「本尊と行者の一体化」だと考えていいことになる。

 「十方土」というのは、東西南北に北東だの南東だのの4つを加え、さらに上と下を加えて、「十方」と数える。すなわち「全方向」という意味だ。仏母と諸仏と諸菩薩は信仰の対象になるものの全体だ。上座仏教の時代には諸仏しかなかったのだが、大乗仏教になって諸菩薩も加わり、さらに密教になって仏母も加わった。それらを本尊であるターラー菩薩が「招き寄せる」。仏たちがお呼びになったというよりは、ターラー菩薩がお呼びになったので、仏たちがそれにしたがっておいでになる。ありがたいことである。ここで深く感謝をささげておく。このあともずっとそうですがね。

  敬礼内外秘密の供養して|懺悔し善行随喜し利生請い|長生願い菩提に回向して|

 行者は諸仏・諸菩薩にご挨拶をし、内・外・秘密の三種類の供養をする。具体的なやり方はこの経典には書かれていないので、師匠について習っておく必要がある。次に自分の悪行を懺悔し、善行を喜んで、生き物たちに益することを願う。さらに自分の、あるいは他の行者の、長生を願い菩提(悟り)に利益をふりむける。

  福田融け入り衆生は楽を得て|諸苦を離れて不偏の平等を|

 そういう功徳ある徳が融け入るので、行者をはじめ修行者たちは楽を得て、苦を離れてかたよりのない平等を得る。

  空性の境に密厳浄土あり|

 空性の場所に密厳浄土がある。いったいその「境」はどこにあるかだが、ある場所にあって別の場所にないと不合理なので、「どこにでもある」というのがいちおう答えだ。実感できるかどうかは行者の修業次第。

  宮殿ありて宝玉ちりばめて|木々と睡蓮(ウツパラ)宝鬘美しく|
  その中央に蓮月宝座あり|TĀM 字が光りて二境を利益して|

 そこに宮殿があって宝玉が散りばめられており、木々と睡蓮が花咲いて美しい。その中央に蓮の花の仏の席があって、TAM 字が光って二境を利益する。

  われは真白く輝く如意輪母|右は施願で左は白蓮を|

 そしていきなりターラー菩薩があらわれる。ほんとうはもっと前からおられたのだが、行者の未熟のために見えなかった。いまは修業の力が足りてきて、見えるようになった。そう考えるのでもいい。私は(ということは本尊も)真白く輝く如意輪母で、右手は施願の印で左手は白蓮を持つ。

  結跏し相好備えて五光燃え|八つの宝と五つの衣まとい|
  頭上の阿弥陀の三処に OM ĀH HŪM|心中白き TĀM より光いで|
  密厳土より相同・灌頂尊|招きて無二の灌頂印されん|

 脚を組んで禅定の形を整え、五つの光が燃え、八つの宝と五つの衣をまとう。頭上の阿弥陀の額・喉・胸の三個所に OM AH HUM と書かれ、心臓の白い TAM 字から光が出る。 密厳土から相同尊・灌頂尊を招いて、二つとない灌頂を印される。

  DZA HŪM BAM HO| ABHISHEKATE SAMAYA SHRĪYE HŪM|

 ここまでが「第一部」で、これだけでもご利益はじゅうぶんありそうに思う。有り難いねえ。

観音成就法(2)

 昨日の続き。このあとに経典を閉じるための経文が続くが、それは全経文に共通なのでいまは省略します。

【大楽をすみやかに実現するマニ回向の願文】

NAMO GURU DEVA DĀKINĪYE

三世の善逝諸仏の法身よ|六道有情を慈眼で見そなわす|
虚空のごとくにあまねき十一面|阿弥陀如来の威容に頂礼す|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

NAMO GURU DEVA DAKINIYE

三世の成就された諸仏の法身よ、六道の有情を慈しみの眼で見そなわす、虚空のようにあまねき十一面、阿弥陀如来の威容に頂礼いたします。OM MANI PADME HŪM HRĪ

無比なる導師釈迦牟尼いただきて|海のごとなる諸仏諸菩薩と|
カギューの上師の供養は雲となり|六字の真言精華をあらわせよ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

比較しようもない導師釈迦牟尼をいただいて、海のような諸仏諸菩薩と、カギューの上師たちは雲となって、六字の真言の真実をあらわしてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ


過去の諸仏の願いが実現し|未来の諸仏の資糧が積重して|
現在諸仏の長く世にありて|六字の真言精華をあらわせよ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

過去の諸仏の願いが実現し、未来の諸仏の悟りの材料が累積して、現在諸仏が長く世にあって、六字の真言の真実をあきらかにしてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

縁につながる父母阿闍梨たち|親族法友関わり持つ者ら|
尊き観音(チェンレシ)彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

縁につながる父母である阿闍梨たち、親族法友関わりもつ者たち、尊い観音よ彼らを導いて、極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

貪り怒り愚かな心もて|怨敵病魔や悪鬼にあう者も|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

貪りや怒りや愚かな心でもって怨敵や病魔や悪鬼に会う者も、尊い観音が彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

忘れてならぬ恩ある施主たちや|忘れられない男女の施主たちも|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

忘れてはならない恩ある施主たちや、忘れられない男女の施主たちも、尊き観音よ彼らを導いて、極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

身語意頼り上師と僧衆とに|供えた財物受け取る有情たち|
尊き観音(チェンレシ)彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

身・語・意の三業をたよって上師と僧衆に供えた供物を受け取る有情たち、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

暴君大臣悪党大衆ら|無恥で嘘つき悪心持つ者も
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

暴君や大臣や悪党や大衆たち、無恥で嘘つきで悪心を持つ者も、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

十の不善と五つの無間罪|それらに近き悪業なせる者|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

十の不善業と五つの無間罪、あるいはそれらに近い悪業をなした者たち、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

回向の文を手向けた在家らの|供物を受けとり逝きたる者たちも|
尊き観音(チェンレシ)彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

廻向の文を手向けた在家信者の供物を受けとって逝った者たちも、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

耳にて死を聞き目にて死を見たる|世界の生きもの全てをあまさずに|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

耳で死を聞き目で死を見た世界の生きものすべてをあまさずに、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

刀や餓えや山や川で死に|善なく悪なく中有に迷う者|
尊き観音(チェンレシ)彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

刀や餓えや山や川で死に、善もなく悪もなく中有に迷う者たちを、尊い観音は彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

ミルクやチーズの恩ある母牛や|血肉いただく有情も残りなく|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

ミルクやチーズの恩のある母牛や血肉をいただく有情も残りなく、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

重荷を乗せて打たれるものたちも|鼻に穴あけ鋤引くものたちも|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

重荷を乗せて打たれるものたちも鼻に穴をあけられて鋤を引くものたちも、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

ウ・ツァンとカムとンガリと閻浮提|三洲島々陽の下なるものら|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

ウ・ツァンとカムとンガリと閻浮提、三州の島々の陽の下にいるものたち、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

五大元素によりて成る者ら|有形無形の粗細の有情たち|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

五大元素によってなる者たち、あるいは有形無形の大きなあるいは細かな衆生たち、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

地獄と餓鬼と畜生阿修羅たち|天人人間三界有情たち|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

地獄界と餓鬼界と畜生界と阿修羅界にいる者たちや、天人界や人間界にいる者たち、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ

十方無辺の世界に住まいする|数えることもできない諸有情を|
尊き観音彼らを導きて|極楽浄土に往生させたまえ|
OM MANI PADME HŪM HRĪ

十方無辺の世界に住んでいる数えることもできない諸有情を、尊い観音よ彼らを導いて極楽浄土に往生させてください。OM MANI PADME HŪM HRĪ