共同体感覚を聴く

 昨日はクラウディオ・モンテヴェルディの話をした。彼は1567年に生まれて1643年に亡くなったのだが、それから約200年後の1770年にベートーベンが生まれて1827年に亡くなった。両者の間に200年の歳月があって、それにつれて音楽もまったく違ってしまっている。現代の聴衆は、ベートーベンは聴くことがあっても、モンテヴェルディを聴くことはめったにない。逆に、ベートーベン以降の作曲家の作品を愛聴する人が多いのだが、私はすこし変っていて、モンテヴェルディからはじまってベートーベンの間の時期のものを愛聴している。それに加えて、若干の現代作曲家、たとえばブルックナーとかマーラーとかバルトークとかも聴くが、それ以外のものには触手が伸びない。つまり、19世紀だの20世紀だのの音楽は、聴かないことはないが、好んで聴くというほどのことはない。

 ある人たちは音楽を精神と結びつけないで聴くが、ある人たちは精神と結びつけて聴く。私は後者で、中学生くらいからずっとそうやって聴いてきた。そうすると、「時代の響き」というか「歴史の波立ち」というものが気になって、それによってある時代の音楽は聴くし、ある時代の音楽は聴かなくなる。モンテヴェルディからベートーベンの間の音楽が私と同じ「響き」をもっていて、それを分かちあうことに喜びを見出してしまったわけだ。

 モンテヴェルディであれベートーベンであれ、根本になっている旋律には共通点があると思う。それは「時代の精神」というようなものだ.ベートーベン以後の音楽になると、そういうものはなくなって、作曲家個人の印象が曲の中心にあるように思う。わかりにくいかな、たとえばシューベルトだのたとえばブラームスだのは、なにか個人的な世界を語っていると思ってしまっている。これは私の思い込みなので、あるいは違うのかもしれないけれど、この年になるともう変更できない。だから、死ぬまで、シューベルトだのブラームスだのは「個人的」な音楽を書いており、モンテヴェルディだのベートーベンだのは「集団的」な音楽を書いていると思い込んで生きて行く。

 ということは、モンテヴェルディだのベートーベンだのを聴くときには、私はひとりぼっちではなくて、仲間と一緒に聴いているということだ。実際にそういう感じがあって、聴き終わると他の聴衆(現実にはいないかもしれない)と同じ印象を共有している感じがある。だから、と突然いうのだが、音楽は共同体感覚を育成してくれると思うわけだ。私ひとりが旋律を聴いているのではなくて、複数の聴衆が同じ関心で同じ(かな?)共同体感覚を聴きとっている。