古典とのつき合い

 クラシック音楽というのは変った趣味で、100年以上前の音楽を繰り返し聴く。もともとはそんな古い音楽を愛好する趣味ではなかったのだが、19世紀が終わって20世紀になるころからそういう傾向が出てきて、今日ではすっかり常識になってしまった。

 これにいくらか似ているのが古典文学で、最新作がもてはやされるとは限らないし、そんなに大量に売れるとも限らない。例を言えば、ソルジェニーツィンなどはまさにそうだった。彼が実際に書いていた時代には、一部の「好事家」が彼をセレクトして読んだが、その数は知れたものだった。その前だとリルケだのカフカだのがそうだし、その後だとワシーリー・グロスマンなどがいる。

 なぜこういう小説家を簡単に思い出せるかというと、私も読者の一人だからだ。古典音楽もひとつの趣味だが、古典文学もひとつの趣味だ。これも古典音楽と同じで、私なりに選んで読んだので、上記のような小説家に「ぬきさしならない」一体感を持ってしまっている。音楽と文学を除くと、他の領域、たとえば絵画とか彫刻とかには、そういう一体感はない。

 考えてみると、心理学という広い領域からアドラー心理学という狭い領域を選び出し、しかもアドラーが述べたそのままではなくて、彼の弟子たちがまとめあげた様式で受け継ごうというのも、いかにも私らしいやりかたなのかもしれない。もっとも、時代とともに受け入れ形式は変っていくだろうと思う。私の解釈はそのうち「古く」なるということだ。それはそれでしかたがない。なにはともあれ、いまはいまの様式でアドラー心理学とつきあう。もっとよい形式が見つかったら、それに乗り換える。