一因多果性

 今日は夕食を作る日で、『ポーク・カツレツ』にした。つけ合わせはいつもと同じ野菜のサラダだ。無事にできて6時に夕食にした。豚肉の頻度が高すぎるかなという気もするが、まあいいだろう。

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 『野田俊作の補正項』の2014年07月24日の項を読んでいると、次のような文章に出くわした。

 若い人たちは(中略)元寇について学校で習っていない。歴史の断絶は徹底している。これは戦後すぐに占領軍が唱えたマントラが今でも効果を発揮しているからだ。マントラのうちで最大のものは当用憲法だ。憲法なんていったって所詮は言葉なのだが、その言葉が魔力を発揮している。とくに「基本的人権」だの「国民主権」だの「戦争放棄」だのという呪文が、厳しく国民の思考を縛っている。憲法改正を言う人たちでも、これらの諸原則を否定することはまったく考えていなくて、この線上で新しい憲法を考えようとしている。占領軍の呪縛はきわめて強い。

 (中略)科学教に対抗するためには仏教の力を借りるのがいい。なぜなら「観察可能性」という前提さえはずせば、仏教は科学とまったく同じ論理構造をしているからだ。つまり、「目に見えない生命」の存在さえ認めれば、後はすべて論理的に導き出せるし、さらには瞑想によって実体験(仮説検証)もできる。だから、スピリチュアリティとは、目に見えない生命の存在を認める科学、あるいは同じ意味だが来世を認める科学、だと、私は言っている。これにたいして、科学教は、目に見えるものだけしか信じない宗教だ。

 ここで言いたいのは、ある事象Aと別の事象Bとが「科学的な因果性」を満たしているということは、「AであるときかならずBである」ということを意味しているが、「BであるときかならずAである」ことが意味されているとはかぎらないということだ。Aは小さな円、Bは大きな円で、Bの円のなかにAの円は入るが、Bのある部分はAの外にあるかもしれないということだ。そういう事例はいくらでも思いつく。人間を対象にして科学的に考えるとき、1つの原因が複数の結果を導き出すことが多い。自然科学は、それを正直に言いあらわすのが苦手だ。