炎の舞(2)

3.

 私は十八の年に海に出ました。日本の年号で申しますと永仁三年(1295年)でございますな。蒙古の襲来の後、海の上もすこしおだやかになって、堺の沖に来る唐船が船乗りを募集しておりましたので、それに乗って、はるか南の海に出かけました。やがて、シュリーヴィジャヤと呼ばれる国にまいりました。漢字では室利仏逝と書いておりましたかな。そこは栄えた王国で、仏法が盛んでございました。日本からは半年あまりかかりました。もちろん、直行ではなく、港々に寄りながらでございます。最終目的地がシュリーヴィジャヤのチャイヤーという港でしたが、そこで半年ほども風待ちをすることになりました。その間は、なにもすることがございませんので、給金が支払われて、船乗りたちは遊びほうけるのでございます。それはもうなにもかも珍しかったですよ。食べ物も知らないものばかりでしたし、言葉も、支那の言葉も話されておりましたが、そのほかにもいくつもの言葉が話されておりました。それになによりも驚いたのは、人の肌の色がさまざまであったことです。墨のように黒い人もおりましたし、褐色の人もおりましたし、白い人もおりました。中には髪の毛が金色で目が碧い人までおりました。

 それからあれこれあったのでございますが、縁あってそこで出家をしたのでございます。法名は、梵語でウッパラシーラ、つまり青蓮華戒と申します。師匠はダルマキルティー、唐語で法称と申される方で、顕密兼学の大阿闍梨でございました。そこでわたくしは、自分で申すのもなんでございますが、密教の奥義をきわめたのでございます。そうして三十五歳の時に、師匠から伝法灌頂をいただきました。
 その後、師匠は、帰国して法を広めるようにおっしゃったのです。わたくしは、
 「いやでございます。せめて師が遷化されるまでは、お側に仕えさせてくださりませ」
 とお願いいたしました。すると阿闍梨は、
 「この国の仏法はまもなく滅ぼされるであろう。知ってのように、西からイスラムという外道が攻めてきておる。これは、これまでの外道とは違って、仏法を学ぶものを片っ端から殺してしまう、恐ろしい邪法なのだ。シュリーヴィジャヤの国王はこれまで仏法を外護してくださったが、今回、代が変わったことを知っておろう。新国王はまだ子どもだ。大臣たちの中には、イスラムに改宗したものもいるという。やがてこの国で破仏が起こることは確実じゃ。私が死ぬのは一向にかまわぬのじゃが、せっかく法を伝えたお前に死なれては、元も子もない。国へ帰るもよかろうし、支那に行くもよかろう。イスラムの手の及ばぬところまで逃れて、法を伝えるのじゃ」
 とおっしゃいました。それはそれは真剣なまなざしでございましたので、わたくしは頷くほかはございませんでした。

 還俗をいたしまして、港で船を探しておりますと、折良く慶元に向かうという天竺船がありました。慶元は、むかし寧波と呼ばれていた港でございます。それが元の年号で皇慶二年でございますが、日本の年号は知りません。そのときわたくしは三十五歳になっておりました。ですから、十六年ほどを仏法修行に使ったわけです。
 天竺船はそこより北に参りませんし、日本に還ろうにも、わたくしは梵語で仏法を習いましたので、漢語の仏法を知りません。そこで、慶元で薬種屋をやりながら、漢語を学んだのでございます。そうこうしておりますうちに十年が経ちまして、いい加減に国に帰らないと老いぼれてしまうなと思い、一昨年に元の商船に乗って帰ってきたのでございます。

 日本を離れる前は、日本の仏法の世界についてなにも知らないと同じでございましたから、帰りましてからあれこれ調べてみますと、まあ、どこの国でもそうなのでございましょうが、清僧もおられますが、ひどい破戒僧もおります。その中で、西大寺真言律宗の方々は持戒清浄で、供養するに値すると思いましたが、それでもまあ、こう申してはなんでございますが、さまざまでございますな。叡尊さまがご在世のころはよかったのかもしれませんが、近頃は感心できぬやからもまま見受けます。こうなったら自分の眼力を信じるしかないと思い、市が出るたびに店を出して、西大寺のお坊さまが通りかかるのを見かけると、観世音菩薩にお尋ねしたのでございます。今日初めて、観世音菩薩はあなたさまなら良いとおっしゃいました。それで声をおかけしたわけでございます。
 わたくしの願いとしては、私が学びました秘法を伝授させていただくことでございます。即身成仏の秘法であると同時に、衆生済度の秘法でもあります。しかし、こんなことを申しても、お疑いでございましょうから、今夜は問答をさせていただきとうございます。そうしてわたくしへの疑いが晴れましたら、改めてお願い申し上げます。

4.

 そう言うと、南蛮屋はふたたび茶と茶菓子をもってくるように言いつけました。私があまりに嬉しそうに菓子を食べたからでございましょう。それから文観さまと南蛮屋は、なんだか難しい問答をなさいました。あたりが暗くなりかける頃に、文観さまは立ち上がって五体投地を三回なさり、
 「今日より今生の尽きるまで、あなたさまを師といただき帰依いたします」
 とおっしゃいました。南蛮屋は、座り直して、
 「それでは弟子として受け入れよう。法話の間は言葉を改めるが、よろしいか」
 と言いました。
 「なんとお呼びすればよいのでしょうか」
 と文観さまがお尋ねになると、
 「ウッパラシーラも青蓮華戒も言いにくかろうから、ただ阿闍梨とお呼びなさい」
 とお答えになりました。それで、これからは南蛮屋と呼ばずに阿闍梨さまとお呼びすることにいたします。

 「ところで、三郎殿はどうなさるか。これからは秘密の教えじゃ。在家の者が聴聞することは許されておらぬ。なんなら小遣いをあげるから、この近所に遊び女のいる界隈がある。そこで一夜をすごされるのもよい。あるいはここで出家をなさるかだ。具足戒は五人の比丘がおらぬと授けられぬが、沙弥戒なら授けられるので、沙弥になればよろしい。そうすれば、聴聞を許してもよい」
 と阿闍梨さまがおっしゃるので、迷わず、と申したいところではございますが、遊び女にも多少の未練がなかったことはないのでございます。しかし、得度をお願い申し上げました。

 それから、十日に一度ほど、浪速の阿闍梨さまのところに通いました。荼吉尼法の秘伝を賜ったのでございます。次の春に、阿闍梨さまは、
 「事相はすべて伝授した。両人に伝法灌頂を授けよう」
 とおっしゃって、私にも伝法灌頂をくださいました。そうなると阿闍梨でございますが、竹林寺ではとてもそのようなことは申せませぬので、ただの比丘として暮らすことにいたしました。阿闍梨さまは、さらに、
 「教相はここに支那で集めた新しい経典がある。まだ南蛮の地の最新のものは漢訳されておらぬが、ここにあるものでも日本ではまったく知られておらぬものじゃ。百巻ほどもあるので、後日竹林寺まで届けさせよう。心して読誦するがよい」
 とおっしゃいました。その上で、
 「もうここに通うことはない。しかし、儂は生あるかぎり、ここで薬種屋をしておるであろう。わからぬことがあれば、いつでも聞きに来るがよい」
 とおっしゃいました。