炎の舞(8)

3.

 その話はそれまでにして、旅に出ることを申し上げました。すると、
 「旅もよかろうが、ここで儂と一緒に修業するのはどうか?」
 とおっしゃいますので、
 「帝のお近くは、わたくしには窮屈でございます」
 と申し上げました。
 「そうか。それでは、旅の途中で浪速の阿闍梨さまに会いに行ってくれぬか?」
 とおっしゃいます。わたくしも浪速の阿闍梨さまにはご挨拶を申し上げなければと思っておりましたので、喜んでまいりますと申し上げますと、
 「儂はこういう状況だから阿闍梨さまに気軽には会いに行けぬ。お会いしたら、文観がくれぐれもよろしくと申しておったと伝えてくれ。文観が今日あるのは、ひとえに阿闍梨さまのおかげだから」
 とおっしゃいました。
 「かしこまりました」
 と申し上げますと、文観さまは、すこしお考えになった後に、いくぶん様子を改めて、話し始められました。
 「東寺は面白かった。何よりも面白かったのは、仏舎利だ。弘法大師が東寺を創建されたとき、八十粒の仏舎利を、甲乙ふたつの壺に入れて奉納された。唐の国から持って帰られたものだ。ところがな、この仏舎利が、世の盛衰に応じて、数を増やしたり減らしたりするのだ。儂が長者を勤めておったときには、甲乙合わせて、千数百粒があった」
 とおっしゃいます。
 「八十粒であったものが、千数百粒に増えているのでございますか?」
 と驚いて申し上げると、
 「いや、それでも少ない方で、もっとも多いときには三千粒以上あったのだそうだ。毎年正月に、長者立ち会いのもとで数を数えるのだが、その記録が残っている」
 とおっしゃいます。
 「不思議なことでございますな」
 と申し上げますと、
 「それでな、東寺の大衆は仏舎利に対する信仰がきわめて深い。それで、儂は、荼吉尼法の摩丹宝珠の代わりに、仏舎利を観想してもよいことにした。体内の五輪に仏舎利があって、それが五彩の輝きを放つのだ。前には仏陀がおられる。これも東寺の大衆は金剛薩埵の信仰が強いので、それでかまわぬことにした。そもそも阿闍梨さまがわれわれに教えてくださったときに、前の男尊は、われわれの信仰する文殊菩薩あるいは観音菩薩でよいとおっしゃったのだから、これはこれでかまわないだろう。そうして、金剛薩埵の体内の五輪の舎利と、行者の体内の五輪の舎利が感応して、五彩の輝きを増しつつ、不二不一の境に至る。真言も、阿闍梨さまに教えていただいた真言ではなく、大日如来真言を使ってもよいことにした。それで、東寺の大衆は、安心して荼吉尼法を行ずることができるようになった。なにしろ、彼らがそれまで学んでいたものとの矛盾がなくなったのだから」
 とおっしゃいました。
 「文観さまは、いつも工夫にすぐれておられます」
 と申し上げますと、
 「もっとも、儂自身は、いまでも摩丹宝珠と観音菩薩なのだがな。それでな、すこし心配しているのは、ここまで工夫を加えてよいものかどうかなのだ。阿闍梨さまにお会いして、こういうことでかまわないのかどうか、お尋ねしてほしいのだ。ここにある『東寺荼吉尼舎利法秘密伝』という文書の中に、法式を詳しく書いた。これを阿闍梨さまにさしあげて、もしこれが邪法であれば、どこをどのようにすればよいかお教えいただき、すまぬが、浄念、ここへ戻ってきて、儂に教えてほしいのだ。もしそうでなければ、そのままうち捨てておいてかまわぬ」
 とおっしゃいました。文観さまは、工夫の優れたお方であるだけでなく、いつも正法を護持するということを考えておられるのだと、目頭が熱くなりました。

4.

 その夜は如意輪堂に泊めていただき、翌朝、涙の別れをして、浪速に向かって旅立ったのでございます。
 阿闍梨さまは、相変わらずお元気でした。文観さまからいただいた巻物をさしあげて、事情を説明いたしますと、
 「衆生済度のために必要な変更を加えることには、何の支障もない」
 とおっしゃいました。その旨、わたくしから文観さまに書状をさしあげると申しますと、
 「この情勢では、書状は簡単には届くまい。それよりも、港に出入りする熊野の海賊に伝言しておこう。この方がはるかに確実に伝わる」
 とおっしゃいます。
 「熊野の海賊でございますか?」
 とびっくりしておりますと、
 「海の上は別世界だ。熊野の海賊もおれば、雑賀(さいが)の海賊もおれば、塩飽(しあく)の海賊もおる。もっと遠いところでは壱岐対馬の海賊もやってくるぞ。そういう者たちと親しくしておらんと、この商売はできんのだ」
 とおっしゃいます。わたくしは、ただただ驚いておりました。

 「浄念よ、旅の行き先は決まっているのか?」
 とお尋ねになりますので、
 「いえ、特には。関東にまいろうかと思っておりますが」
 と申し上げますと、
 「鎌倉念仏寺も、鎌倉攻めのときに焼けてしまった。僧も四散したそうだ。関東に行ってもおちついて学問はできないだろう。それよりも、唐土に行かないか?」
 とおっしゃいます。
 「唐土でございますか? しかし、唐土には、禅宗しかございませんとか」
 と申し上げますと、
 「唐人の仏法はたしかにそうだ。宋以降は、禅宗一色になった。しかし、元の時代になってから、蒙古人が支那を支配するようになった、蒙古人は西蔵の仏法を信じておる。これは、持戒清浄の密教だ。そなたが学ぶには、ちょうどよいのではないか?」
 とおっしゃいます。突然の話で目を白黒しておりますと、続けて語られます。
 「もしそなたにその気があるなら、儂が紹介状をかいてやろう。慶元府の商人で、蒙古人や西蔵人とも親しい人がいる。その人を頼っていけば、なんとかなるだろう」
 「しかし、わたくしは唐語は話せません」
 と申しますと、
 「唐語は方言が多いので、どうせ筆談なのだ。筆談なら、そなたは困るまい」
 とおっしゃいます。
 「唐語はよいとして、蒙古語や西蔵語などはとても」
 と申しますと、
 「それも案ずることはない。日本語にきわめて似ておるので、一年もおれば自由に話せもし、読み書きもできるようになっておろう」
 とおっしゃいます。

 そんなこんなで、十日ほど阿闍梨さまのお宅にお世話になっておりますうちに、話はすっかり整ってしまいました。ちょうど慶元府に向かう唐の商船があるというので、それに乗ることになりまして、その前の晩のことでございます。阿闍梨さまは、知り合いの商人宛の書状と、たくさんの元の紙幣をくださった上に、別に一枚の書状をくださいました。そして、
 「これは度牒だ。そなたが東大寺で出家した本物の比丘であることの証明書だ」
 とおっしゃいます。
 「わたくしは西大寺で出家したのでございますが」
 と申し上げますと、
 「むこうではそれでは通用せんのだ。東大寺で出家した僧だけが僧だとみなされる。これは唐代からの慣例だ。この度牒があれば、そなたはかの地でも僧として生きていける。そなたばかりは、僧としてしか生きて生きようがないものな。文観であれば、商人でも海賊でも、何にでもなれるだろうが」
 と言って、愉快そうに大笑いなさいました。
 「これは、ひょっとして偽造品でございますか?」
 と、こわごわお尋ねいたしますと、
 「ちゃんと本物の東大寺の律師の署名と印が押してある。どうして手に入れたかは、まあ、秘事口伝だな」
 とおっしゃって、もう一度、いかにも愉快そうに笑われました。そして、
 「よいか、浄念。しっかり学問をし、しっかり修業をして、かならず日本に帰ってくるのだ。そして、儂がしたように、修行の成果を受け継ぐ者を見つけ出すのだ。文観については、成功したのか失敗したのか、まだわからん。そなたについては、そなたが日本に帰ってこなければ、儂の失敗だ。よいか、かならず帰って、伝法するのだぞ」
 とおっしゃいました。
 わたくしはこれまで何もしないでいたのだと思いました。阿闍梨さまが文観さまとわたくしの魂に移してくださった荼吉尼の炎は、文観さまの中では激しく燃え上がり、世の中を揺り動かしました。それがこれからどのように受け継がれていくのかは、阿闍梨さまがおっしゃるように、わかりません。しかしわたくしの中では、炎はただおだやかな光を放っていただけで、まだ舞うべき舞を舞っておりません。ようやくこれから、本物の炎の舞が始まるのでございます。唐土へでも蒙古へでも西蔵へでもまいりましょう。そしてまことの教えをいただき、かならずそれを日本に伝えましょう。わたくしはそう心に誓ったのでございます。

 翌朝早く、わたくしは船に乗りました。これからも長い物語がございますが、それはまたいつか機会があれば聞いていただくことにいたしましょう。