影の炎

 『炎の舞』の続編『影の炎』を連載します。むかし『野田俊作の補正項』に連載したことがあって、再掲載です。

 

第一部 一揆

 「影はおるか」
 と、殿の声が聞こえました。わたくしは、当番のあいだは御殿の天井裏の「影の間」に潜んでおります。殿のお呼びがあれば壁の中にある梯子を降りて、廊下の隅にある小さな戸をくぐって廊下に出ます。この戸は、影の者以外にはわからぬように、巧妙に目くらましがしてございます。廊下の隅の闇の中で、
 「おん前に」
 とお答えいたしました。
 「近う」
 と殿はおっしゃいました。殿と申しますのは、佐々木道誉さまでございます。
 「ほう、今日の番は浄阿か」
 と殿はおっしゃいました。
 「名を覚えていただきまして、かたじけのうござります」
 とわたくしは申して、平伏いたしました。
 「美女の名は覚えるさ」
 と殿はおっしゃいました。
 「おたわむれをおっしゃいますな」
 と申し上げますと、
 「どうじゃ、おれと寝んか」
 と笑いながらおっしゃいます。殿は「婆娑羅大名」としてお名前が知られております。外出なさるときは唐風の派手な着物を着ておられますし、戦ともなれば金襴の鎧兜で、それはそれは見事なお姿になられます。しかし城内では着流しで、気楽な姿をしておられます。お顔は日焼けして黒く、顔の作りは四角張って大きく、中でも目がよく目立ちます。ほんとうにいたずらっぽい目でございます。出家なさって、髪は剃髪しておられます。髪があった時代は、どんなにりりしくあられましたでしょうか。いえ、いまも十分りりしくあられますが。
 「危のうございますよ。お命をいただきまして、お首をどなたかにお見せすると、ずいぶんな報償になりましょうから」
 と笑いながら申し上げますと、
 「ほう、おれを売るか」
 と笑いながらおっしゃいます。この殿のそういうところが好きでございます。
 「場合によっては」
 と、真剣な風をして申し上げました。わたくしは、佐々木氏の家人ではございません。甲賀の里の親方さまから佐々木殿に貸し出された身でございますから、場合によっては殿のお首をいただくこともないとは申せません。もっとも、なんらかの都合で縁が切れましても、普通はお首をいただいたりはいたしませんで、ただ黙ってお暇をいただくだけでございます。大名の首は、敵方の侍がたのために置いておいてさしあげなければなりませんからね。殿の方も、そのあたりはご存じでつき合ってくださっています。お互いに、それでよいのでございます。影の者とはそういうものです。

 「坂本の様子はどうか」
 と問われますので、
 「ただの一揆ではございませんな」
 と申し上げました。
 「ただの一揆でないとは」
 「さよう、魔が働いておりまする。坂本の百姓衆は魔に動かされておると思われまする」
 「魔とな」
 殿はすこし考えてから、
 「いずれの手の者であろうな」
 とおっしゃいました。
 「わかりませぬ。術の様子から見て、甲賀の者ではありませぬ。かと申して、伊賀の者でもないと思われます。いずこの者かわかりませぬが、不思議な術を使います。赤松殿は手を焼いておられるご様子」
 とお答えしました。
 「坂本は赤松殿の城だな。円心入道殿はすでに亡く、いまはどなたが城主か」
 「三男の則祐殿でござります」
 「一揆衆は坂本城を攻めておるのか」
 「坂本の城を囲んで鬨の声を上げるの、練り歩くだのはしておりますが、それ以上のことはしておりません。赤松殿は籠城をされて、出て来られません。一揆衆は、大津あたりの土蔵へは、盛んに襲撃をかけております。それがきわめて異様な景色なのでございます」
 「異様とな」
 「念仏のようなものを唱えながら、殺されても殺されても前進するのでございます」
 「ほお。浄土衆なのか」
 「そうなのでございましょうか。浄土衆は、あのような念仏はいたしません。真言でございましょうか、陀羅尼でございましょうか、なにやら異様な声なのでございます。しかも、目が完全に死んでいるのでございます。それはそれは不思議な風景でございます」
 「ほお。面白いの。見に参ろうかな」
 「殿のことでございますから、そうおっしゃると思っておりました。しかし、もうすこしお待ちいただけませぬか。魔の正体を知ってから、お供いたしとうございます。と申しますのは」
 わたくしはどのように言ったものかと、すこし考えました。
 「どうしたのか」
 と殿がうながされましたので、
 「土蔵の手の者も、やがて同じ目になって、百姓衆と一緒になって土蔵に攻めかかるのでございます。いつのまにか、同じ念仏だか真言だかを唱えております。そのうち、土蔵の家の者まで一緒になって、米だの布だのを、百姓衆と一緒に運び出すようになります。敵も味方も、みな魔の手にかかってしまうのでございます。その米だの布だのは、舟に積まれて、北の方に向かって漕ぎ出されますが、行く先までは見とどけておりません」
 「坂本へ行くのではないのか」
 「いえ、坂本には舟は着きません。もっと北の方へ向かっております」
 「ふうむ。何が起こっておるのであろうか」
 「仲間の者が舟を追っておりますので、そのうちわかるかと存じます。そのあたりのことがわかりましたら、お供できるかもしれませぬ」
 「よし、わかった。楽しみにしておるぞ」
 「それでよろしゅうございますか」
 そう申して、わたくしは闇の中に消え、天井裏の「影の間」に帰りました。朝までは番でございます。殿からのお呼びがなくても、敵の手の者が侵入するなどということがあれば、働かなければなりません。夜明けになるすこし前に城を抜け出して、番屋敷に戻ります。明日は別のものが番をいたします。平時はそのようにして暮らしているのでございます。

 翌日、わたくしは師の御坊にお目にかかりに参りました。師の御坊と申しますのは、浄念阿闍梨と申されて、いまは番場宿の蓮華寺におられます。佐々木殿の御館のある伊吹山の麓の上平寺から番場宿までは、一刻も歩けばまいれます。去る年の戦乱で蓮華寺の山門は焼け落ちて、いまはございません。庫裏は焼け残っておりますが、本堂は焼けてしまっております。荒れ果てた様子でございますが、師の御坊はわざわざそこを選ばれて住持をしておられます。
 庫裏に向かって、「浄念阿闍梨にお目にかかりたいのですが」
 と声をかけますと、
 「お入りなさい」
 とお声がありました。庫裏に入って
 「しばらくのご無沙汰でございました」
 とご挨拶を申し上げました。師の御坊はわたくしとわかって微笑まれ、
 「おお、美紗か、元気そうだね」
 とおっしゃいました。
 美紗というのは、わたくしの本名でございます。佐々木家へは、勝手に浄念さまの「浄」の字を使わせていただいて、浄阿弥陀仏、略して浄阿という時衆風の名でお仕えしております。また別の主人をいただくときには、また別の名を使うでありましょう。そういうものなのでございます。しかし、師の御坊には本名を隠す必要がございませんので、美紗という親にもらった名で呼んでいただいております。
 「阿闍梨さまもお元気そうで、なによりでございます」
 と申し上げますと、
 「佐々木殿もお元気かね」
 とお尋ねになりました。
 「はい、お元気すぎて困るくらいでございます。わたくしに向かって『おれと寝んか』などど、お戯れをおっしゃるほどに」
 と申し上げますと、
 「ほう、もう六十歳は遠にすぎておられるはず。お元気なことだ。それで、寝たのかね」
 とお笑いになります。
 「いいえ。影の者は、味方とは寝ません」
 と申し上げました。敵とは、必要があればそういうこともするかもしれませんが、味方とそういうことをする理由がございません。
 「そうか」
 と師はおっしゃいましたが、特に表情は変わりませんでした。師の御坊は、華奢なお体をしておられますし、お顔も細面ですが、威力を感じさせる方でございます。威力と申しましても、猛々しいものではなくて、やわらかな春の日射しのような力でございます。阿弥陀仏のおん光とはこのようであろうかというような、そういう威力でございます。

 「今日は、なにか特別の用かな」
 とおっしゃいますので、
 「坂本の百姓衆が一揆を起しておりますのは、ご存じでございましょうか」
 と申しますと、
 「いや、はじめて聞いた。物騒な世の中だな」
 とおっしゃいます。
 「佐々木の殿に命じられて、見てまいったのでございますが、魔が働いております。危なそうなので遠くから見るだけで、帰ってまいりました。ものすごい邪気でございました。近づくと取り込まれそうで」
 と申し上げますと、
 「ほう」
 と、すこし目を細めておっしゃいます。
 「できますれば、阿闍梨さまにお出ましいただいて、魔の正体を見破っていただけないものかと思って、お願いにまいった次第でござります」
 と申し上げますと、
 「行ったからといってわかるものでもない気もするが、まあすることもないし、行ってもよいかな」
 とおっしゃいました。
 「明日の朝、お迎えにまいりましてもよろしゅうございますか」
 とお尋ねしますと、
 「おお、よいとも。用意しておこう」
 とおっしゃいました。それで用談は終りでございますが、そのままお別れするのももったいないので、すこし雑談をいたしました。

 「荼吉尼法はしているか」
 と師の御坊は問われます。
 「はい。いまの勤めは、ほぼ三日目ごとに天井裏の『影の間』で、日没から夜明けまで番をいたします。ほとんど用はありませんので、ずっと荼吉尼法を行じております。その他の時間は野を駆けていることが多いのですが、そのときもできるだけ荼吉尼法の真言を唱えております」
 と申し上げました。
 「それはよい。荼吉尼法を行じておれば、どのような魔にも犯されるものではない」
 と師の御坊はおっしゃいます。
 「荼吉尼法は、南蛮の僧に学ばれたとか」
 と申し上げますと、
 「いや、そうではない。南蛮で学んで帰ってこられた日本人の阿闍梨から学んだのだ。その方は青蓮華戒聖者といわれて、四天王寺の近くに在家に身をやつしてお住まいであった。私の師の文観上人と一緒に、その方から荼吉尼法を教わったのだ。それから、そなたも知っておろうが、文観上人は南朝の人となられた。噂では、数年前に河内の金剛寺で入滅されたとか。私は、あれは丁丑(ひのとうし)の年であったから、建武四(1337)年かな、師の阿闍梨の勧めもあって、元の国に渡ったのだ。そうして蜀の国の奥、西蔵国まで行って、さまざまの法を頂いてきた。帰ってきたのが甲午(きのえうま)の年であったから、文和四(1354)年かな。元の年号と北朝の年号と南朝の年号があってややこしいので、干支で覚えているのだよ。西蔵人も同じ干支を使うので、万国どこでもこれでいけるのだ。ともあれ、十七年も西蔵をさまよったわけだ」
 と、面白そうにおっしゃいました。
 「帰国はしたが、国は乱れているし、落ち着く先もないので、あちこち行脚をして暮らしていた。甲賀の里で佐治殿の厄介になっているときに、そなたに会った」
 「佐治の親方さまが、阿闍梨さまから天竺の秘法を教わるようにおっしゃいました。しかし、阿闍梨さまは、荼吉尼法の他は教えてくださいませんでした」
 「そうだね。西蔵では、怪しい魔法をたくさん学んだよ。けれども、それを使うのはよいことではないと思った。なんでも、私が学んだ宗派の開祖の密勒日巴(ミラレパ)という尊者は、若いころに黒魔術を学んで、たくさんの人を呪殺したんだそうだ。その報いで地獄に墜ちるはずだったのが、馬爾巴(マルパ)という正師に会って、必死で修行したので、この世にいるうちに開悟して、堕地獄を免れたのだとか。呪法で人を殺すのも、刀剣で殺すのも、同じように堕地獄の業なんだよ」
 「はい、それはそうでございます。しかし、わたくしのような影の者は、人を殺さなければならないこともあります」
 「そうだ。だから、その罪業をすこしでも軽くするために、荼吉尼法を教えた。もし人を殺すことがあれば、その後で私のところへおいで。いくらかでも罪が軽くなるように呪法をしてあげよう」
 「ありがとうございます。それはそれとして、師は呪殺法なども学ばれたのですか」
 「学んだ。ありとあらゆる邪法を学んだ。それは、自分がそれを使うためではなく、それから人々を守るためだ。やり方を知っていないと、守り方はわからない」
 「そのような邪法は、わたくしどもにはお伝えいただけないのでございますね」
 「そうだ。人の悪業を深くする手伝いはできないのでね」
 「ありがとうございます」
 「ほう、礼を言うのかね」
 「はい、もし知ってしまえば、かならず使いますから」
 「そなたはほんとうに賢い。そうなのだよ、知ってしまえば使うかもしれない。使うと、あまりの威力の大きさに、たくさんの人を苦しめることになるだろう。刀や槍では一人二人しか殺せないが、呪法を使えば、何百人を一度に殺せる」
 「坂本の百姓衆を動かしている魔が使っているのは、どうもそういうたぐいの呪法ではあるまいかと、わたくしは思っているのでございます。これでも、日本に伝わる呪法は、たいていは知っております。しかし、あれは見たことがない方法です」
 「ほう、面白そうだね。楽しみになってきた」
 師の御坊はそうおっしゃると、ほんとうに面白そうにお笑いになりました。

 翌朝は秋らしい快晴でございました。暗いうちに屋敷を出て、夜明けをすこしすぎたころに蓮華寺に着きました。延文四(1359)年十月六日のことでございます。
 「舟でまいりましょう」
 と申し上げました。
 「陸上は物騒でございますから」
 そうして、師の御坊を乗せて、坂田の港から舟を出しました。小さな帆のついた舟で、北東からの風を横に受けて、湖を一路西に向かいました。湖には湖賊というものがいて、検問をして通行手形を見せないと襲われるのですが、なんと申しましてもわたくしどもは佐々木殿の手形を持っておりますので、どんな湖賊も手を出せませんから、その点は心配要りません。遠くに比叡山が見え、右には比良山が見えます。後を振り返りますと、伊吹山がそびえ立っております。空は真っ青で、秋の太陽がまぶしく湖面を照らしておりますが、さいわい日は東にあり舟は西に向かっておりますので、目がくらむことはありません。
 やがて舟は瀬田川の河口に着きました。そこに膳所(ぜぜ)という村があり、そのあたりに舟を泊めておくのが安全でしょう。その向こうでは一揆衆が暴れておりますから。
 私は髪の毛を隠して僧形をしております。手ぬぐいで頭巾を作った上に笠をかぶっておりますので、有髪であることはわかりません。師の御坊はもちろん僧形でございます。戦乱の中でも、僧は安全なはずでございます。
 歩いてまいりますと、倉の荷を舟に積んでいる人々に出会いました。口々に呪文を唱えております。一揆衆に違いありません。
 「おん、ふるふる、てたてた、ばんだばんだ、はなはな、だはだは、あむるて、ふん、ぱっ」
 という風に聞こえます。
 師の御坊の表情が変わりました。
 「あれは」
 とおっしゃいます。
 「ご存じですか」
 とうかがいますと、
 「たぶん知っている。寺に帰って確かめてみよう。出典がわかれば、対抗策もわかる」
 とおっしゃって、紙を取り出し、見たこともない文字でなにかを書いておられます。

 そのとき、一揆衆の中の一人の男がこちらを見て、わたくしどもを指さし、鋭い声でなにやら叫びました。
 「さばびがな、びなやかん、まかがなぱてぃ…」
 あたりまでは聞こえていたのですが、頭にがーんと響いて、地面が急に落ちていくような気がして、気が遠くなりそうになりました。
 そのとき、師の御坊が、
 「美紗、目を閉じよ、耳を塞げ」
 とおっしゃるや、静かな声で、
 「おん、すばばーば、しゅっだ…」
 と呪文を唱えられましたが、そこから後は耳を塞いでいたし目を閉じていたので、聞こえませんでした。
 しばらくして、師の御坊が耳を塞いでいる私の手をとられて、
 「美紗、もう大丈夫だ。目を開けなさい」
 とおっしゃいました。
 敵の男は、不思議そうな目でわたくしどもの方を見ておりました。
 「隠形(おんぎょう)の術を使っている。あの男からは私たちは見えない。これは美紗にも教えておいた方がよさそうだ。とにかくものすごい魔法が使われていることはわかった。これは天竺の法だが、私が学んだのとは違う系統のものだ。詳しいことは寺に帰って説明しよう。とにかくここはきわめて危険だ。そのまえに、ちょっと待っていておくれ。私がいない間は、荼吉尼法を行じているように」
 とおっしゃって、人々のいる方へ行って、地面に落ちているものを拾っておられました。不思議なことに人々からは師の御坊は見えないようで、まるで誰もいないかのように荷を舟に積んでいました。

 さいわい、風は北西に変わりましたので、横からの風ではありましたが、東に向かって舟を進めることができました。舟の中で師の御坊はおっしゃいました。
 「元の国では、支那の仏法だけでなく、西蔵の仏法も盛んなのだ。西蔵の仏法は、天竺から直接伝わった秘法をたくさん含んでいる。その中には、外道の邪法もかなり混じり込んでいる。先ほど聞いた呪文は、ある経文に書かれている呪文で、人の魂を抜き去って、思うがままに扱うために使うものだ。あれは日本には伝わっていないので、誰かが元に渡って習ったのであろう。まあ、堺なり博多なりへ行けば、元はすぐそこだからな」
 「阿闍梨さまの他にも元に渡った者がいるのですね」
 「いるだろう。いや、あるいは、西蔵人や蒙古人が渡ってきているのかもしれない。それだって十分にありそうなことだ」
 「いずれにせよ、異国の邪法なのでございますね」
 「それは確認した。あれは梵語の呪文だ。しかも、支那の発音とは違っている。もっとも、西蔵の発音ともすこし違っているので、西域のどこかのものかもしれない。なにはともあれ、支那や日本のものでない」
 「先ほどは何を拾っておられたのですか」
 「護符さ。ほら、これだ」
 と、懐から紙を出されました。そこには奇妙な模様が描かれていました。あるいは文字であるのかもしれません。
 「それはなんでございますか」
 「わからん。この文字は私にも読めない。ただ、非常に強い呪力が込められていることはわかる。寺に帰ったら、調べてみる。数日でわかるだろう」
 「ありがとうございます」
 そうしているうちに、坂田の港に帰ることができました。もうすこしで暗くなるころでございました。師の御坊を蓮華寺までお送りすると、真っ暗になっておりました。
 「そなたは夜も眼が見えるのだね」
 と師の御坊は感心しておっしゃいました。
 「子どものころから修行をいたしますので」
 とお答えすると、
 「泊まっていきなさいと言いたいが、さすがに女を泊めるわけにはいかない。ひとりで帰れるかね」
 と心配そうにおっしゃいます。
 「わたくしは影でございます」
 と申して、おいとまをいただきました。