5.「イエスの方舟」と「オウム真理教」

 国などの大きなコミュニティが人々にかけている魔法は、人々を不幸な状態にとどめておくことを目的にしているのだと書いたが、それだったらどんな国家制度でも別にかまわないじゃないかと考える人もおられるかもしれない。そんなことはないので、近代国家の魔法は、国民に選択肢を与えて、国民が自由意思で不幸を選ぶように仕向けるところに特徴がある。仮にある人が、政府が与えた選択肢以外の可能性を選んでも、自由意思を認めている以上は、それが犯罪的でない限りは、政府としては文句を言えない。小さな対抗魔術集団は、政府が与えた以外の可能性を選ぶことによって成立する。アドラー心理学にかぎらず、さまざまの団体が、このようにして、反社会的ではないが非社会的な価値システムをもった小さなコミュニティを作る。こういうことができるのは、日本が近代国家だからだ。

 たとえば中国では、こういうことができない。政府はそもそも選択肢の形で国民に問いかけることをせず、ただひとつの選択を国民に強制し、それ以外の選択をすることをいっさい許さない。そういう社会では、対抗魔術集団が作れない。これは、対抗魔術集団を作らせないために、中国政府がそんな風にしているのだと理解した方がいい。つまり、圧政の結果として対抗魔術集団が作れなくなるのではなくて、対抗魔術集団を作らせないことを目的に圧制しているのだと考えた方がよい。なぜそんなことをするのかというと、中国では、しばしば新興宗教団体が国家を転覆しているからだ。新興宗教団体は典型的な対抗魔術集団だ。だから、共産党は、あらゆる種類の宗教団体を徹底的に弾圧する。チベット仏教もそうだしイスラム教もそうだけれど、「法輪功」という宗教への迫害はものすごいものであるそうだ。政府が指導するやり方以外で国民が幸福になることを、中国共産党は決して許さない。しかも、政府の指導に従うと、国民は絶対に幸福になれない。

 明治維新で日本は近代国家になる決心をして、思想・信教の自由を大幅に認めることにした。しかし、昭和に入ると「大本事件」(大正10(1921)年と昭和10(1935)年)とか「ほんみち不敬事件」(昭和3(1928)年と昭和13(1938)年)とかいうような宗教弾圧事件を起こす。帝国憲法制定時点での明治国家は宗教国家ではなかったのだが、ある時点で「現人神」天皇を信じる宗教国家に変質し、天皇を神として認めない思想は、大本やほんみちのような新興宗教であれ、美濃部達吉津田左右吉のような自由主義的な学者であれ、感情的になって激しく弾圧した。いまの中国共産党のように全宗教を撲滅しようとしたわけではないが、「現人神」天皇を正面から否定する宗教だけはけっして許さなかった。結果的に弾圧の対象となったのは、共産党(という宗教)といくつかの教派神道系の宗教で、仏教やキリスト教は、天皇が神であることを、積極的に認めないまでも正面きって否定はしなかったので、迫害の対象にならなかった。

 戦後であっても、小さな対抗魔術集団が世の中からバッシングされた事例がないことはない。昭和54(1979)年に「イエスの方舟事件」というのが起こった。千石剛賢(せんごくたけよし)というキリスト教徒が「イエスの方舟」という小さな教団を作っていたが、そこに家族との折り合いの悪い若い女性たちが集まって集団生活をするようになった。家族が怒って押しかけたが、娘たちは帰ろうとしなかった。それどころか、千石氏といっしょに失踪してしまった。家族は「カルト宗教の邪悪な教祖にだまされて娘が誘拐された」とマスコミ各社に対して訴え、『婦人公論』誌がそれを取りあげて、大騒ぎになった。マスコミ各社がキャンペーンを張り、「千石ハーレム」などと言って、あたかも性的に乱脈な生活をしているかのような話を勝手に作り上げて騒ぎ立てた。娘たちもマスコミに手紙を書いたが、マスコミは「千石に強制されて書かされたのだ」と思い込んで、親の言うことだけを信じた。やがて国会議員も動き、警察が本格的に操作を始めた。

 その中で『サンデー毎日』誌は、娘たちの手紙を信じて、それを記事にした。その結果、千石氏のグループから連絡がきて、彼らをかくまうことになった。話を聴いてみると、事件性はまったくなくて、娘たちがみずからの意思で千石氏に付き従っている、いや、もっと正確に言うと、主張のはっきりした娘たちがノーを言えない千石氏を引っ張り回している、という感じだった。そうしているうちに、千石氏が狭心症発作をおこして入院することになり、世間の前に姿をあらわさざるをえなくなった。娘たちは居場所を失って親たちのもとに返されたが、千石氏が退院し、警察は事件にしないことになると、全員が千石氏のもとに帰った。その後、博多で共同生活をしながら、「シオンの娘」という飲み屋を作って、全員がそこで働いて、幸福に暮らした。こういう事件だ。その店はいまでもあるんだろうかね。

 「イエスの方舟事件」は、世の中がどんなに「幸福な対抗魔術集団」を憎んでいるかの、ひとつの証拠だ。イエスの方舟については、犯罪性も、みんなが期待した不道徳性も、ないということで、世間の関心は急速に冷めた。それは世間が彼らを許したという意味ではなくて、世間と違う生き方をして幸福であることは許せないので、忘れることにしたという意味だ。別に忘れてもらっていいので、その方が「イエスの方舟」の人たちも嬉しいだろう。対抗魔術集団は、世間に知れないでひっそりと生きていくのがいいのだ。だから、「アドラー心理学ブーム」にとまどっている。あまり目立つと困るんですよ。

 「イエスの方舟」と対で思い出すのが「オウム真理教」だ。オウム真理教もまた、家族と折り合いの悪い若者たちの逃げ込み場所になっていて、初期にはそのことで問題を起こした。しかし、出発時点から、本質的な部分で違っていたのだと思う。つまり、はじめは「まとも」な宗教団体だったのが、ある時点から犯罪集団に変質したのではなくて、はじめから犯罪集団に変わる芽があったのだと思う。なぜなら、ライフスタイルはそう簡単に変わるものではないからだ。

 対抗魔術集団は、イエスの方舟オウム真理教も、ついでにアドラー心理学も、「一般社会は間違っていて自分たちは正しい」と考えているわけだが、「一般社会を自分たちが考える方向に矯正しよう」と考える《伝道的》なものと、「一般社会と距離をとってひっそりと自分たちの理想に生きよう」と考える《隠遁的》なものとに二分していいと思う。伝統仏教だと、日蓮宗は伝道的な対抗魔術集団であり、禅宗は隠遁的な対抗魔術集団だった。オウム真理教は明らかに伝道的な集団であり、イエスの方舟はきわめて隠遁的な集団だ。

 伝道的な集団は、しばしば一般社会と摩擦を起こす。それはそうだろう、「一般社会は間違っていて自分たちは正しい」と外に向かって言うのだから、一般社会側は怒るだろう。それでも、一般社会で不幸な人たちが集まってくるから、信者の数は増える。新規に加入した人たちは、一般社会にいたときよりは幸福になれる。しかし、ある程度以上スケールが大きくなると、幹部たちはいい暮らしをするかもしれないが、末端信者はただ奉仕させられるだけで、あまりメリットがなくなる。つまり、一般社会にいるのと同じ構造ができる。

 どうしてこうなるのかだけれど、伝道的な集団は競合的だからだ。スケールが小さい内は、その競合性は集団の外側にだけ向いていて、集団内部では協力的でおれるが、スケールが大きくなると集団内部でも競合的になる。だから、しばしば内紛や分裂を起こすし、階級分化ができて梯子を駆け上ったエリートと、取り残されたマス(大衆)とに分裂する。そうなると、マスにとっては、その集団にいる価値があまりなくなる。何人ぐらいからそうなるのか、ちょっと興味があるんだけど、こういうのは研究はないよね、きっと。

 魅力がなくなるとマスは離れていくものだが、もし教義に「罰」が含まれていると、マスは逃げ出すことができなくなる。たとえば、日蓮宗の系統の教団の多くが「仏罰」ということを言う。『法華経』に「法華経を誹謗するものは地獄に堕ちる」と書いてあるからなのだが、指導者が信者に向かって、「教団を抜けると、法華経を誹謗したことになるから、地獄に堕ちるぞ」と脅すと、信者は恐れて、メリットがなくても教団に留まらざるを得ないことになる。これと同じ構造がオウム真理教にもあったようだ。

 ときどき、こういう種類の教団が社会全体を乗っ取ることがある。たとえばローマ時代のキリスト教がそうだったし、ソ連時代の共産党もそうだった。どちらも激しく布教伝道的で、非信者を口でも武器でも攻撃し、内部では激しい権力闘争があり、しかも一般信者を想像上の罰(たとえば堕地獄)あるいは現実的な罰(たとえば火あぶり)でもって脅した。ソ連をブレジネフとコスイギンとボドゴルヌイが「トロイカ体制」で支配していた時代のジョークがある。コスイギンがブレジネフに「国民が自由に海外に渡航できるようにしませんか?」と提案したところ、ブレジネフは「そんなことをしたら、国内にいるのはわれわれ3人だけになってしまう」と言った。コスイギンは、「1人はあなただとわかりますが、残りの2人は誰ですか?」と尋ねた。つまり、一般国民にとってはソ連国民であることになんのメリットもなくなっていたわけだ。いやですねえ、こんな社会は。

 この話の中に、どうして国家は国民を幸福にできないかのヒントがある。現代国家は、かつては小さな対抗魔術集団だったのだが、それがあるとき国全体を乗っ取ってできたものだからだ。日本だってそうなので、幕末の対抗魔術集団であった尊皇攘夷論者が、最終的に国を乗っ取って明治国家を作った。尊王攘夷論者は競合的な伝道的集団であったから、型どおりの発達を遂げて、明治国家は、梯子を駆け上ったエリートと、取り残されたマスとに分裂した。それからどうなったかは面白い話だが、今日のトピックから離れてしまうので、またいつかにしよう。

 大きなスケールの集団を考えると、こういう歴史しかありえないように思う。だから、小さな隠遁的な対抗魔術集団に隠れてひっそりと幸福になるしかないと思っているのだ。悲観論的なのかな。故オスカー・クリステンセンがこんな話をしていた。彼が大学院生だったとき、大学にドライカースがやってきて、アドラー心理学の特別講義をした。それを聴いたクリステンセンは、「これでアメリカの教育問題は、すべて解決したぞ」と思った。けれども、それから50年経っても、なにも変わっていない。…いえ、オスカー、そうじゃありませんよ。小さな教室という単位で見るなら、アメリカにも熱心なアドレリアン教師はたくさんいます。日本だってそうです。ヨーロッパだってそうです。アドラー心理学は、構造上、こういうあり方でしか存続できないんだと思います。つまり、非競合的だから、主流にはなれないんですよ。もし競合的になって主流になったら、人々を幸福にする力を失ってしまうでしょう。

 話を元に戻して、イエスの方舟の千石剛賢氏は、 YouTube で見るとさえない「おっちゃん」だが、しかし間違いなく聖者だった。26人だかの信者を幸福にしただけだが、イエス・キリストは12人だったから、数では勝っている。オウム真理教麻原彰晃は、どうだったんだろう。やはりそれなりに人間的な魅力があったんだろうな。彼が仮に競合的でなくて、小さな教団でひっそりと説法することで満足していたら、幸福な対抗魔術集団としていまでも続いていたのかもしれない。そうしているうちに、彼も本物の聖者になったかもしれない。ところが彼は競合的な人だったので、競合的な教団を作り、それが成功するにつれて野心はどんどん大きくなり、やがて限界を踏み越えて犯罪的になったのだと思う。

 オウム真理教と国家とは、競合的な魔術集団という点で、実は同型なのだ。ある場合には、オウム真理教以上に凶悪な国家を作ってしまうこともある。たとえば共産中国はそうだと思う。明治国家は、共産中国ほど犯罪的でなかったが、それでもある時期からきわめて不寛容になった。戦後日本は、すくなくともいまのところ、そんなに凶暴ではないが、それはどうしてなのだろう。もうちょっとこの問題は考えてみる価値があるな。