6.科学の周辺

 魔法というのは、1)相手の自由意思を完全に尊重するふりをして、2)「開いた質問」あるいは複数の「閉じた質問」で系統的に問いかけて、3)次第に相手をこちらの思う方に誘導していく、という対話技術だと思っているのだが、古代人はまったく同じ技術を神霊相手に使っていた。ここで「神霊」というのは、仏教語で言うなら天とか夜叉とか龍王とかだし、神道だと神とか天狗とか龍神とかかな。そうして、たとえば病気治しだとか、たとえば五穀豊穣とか、たとえば戦勝祈願だとか、たとえば雨乞いだとか、そういう目的に神霊の助けを借りようとした。

 神霊は、人間以上に自由でいることを好むようで、強制して何かをさせようとすると、ただ魔法の効果がないだけでなく、行者の身に危害が及ぶと信じられていた。だから、神霊の喜ぶもてなしを十分にした上で、上に書いたような方法で、神霊を怒らせないように気をつけながら願いごとをした。これは私が勝手に言っているわけではなくて、仏教でも神道でも儀軌(マニュアル)を見れば、そういう言い方で神霊にお願いするように、詳しく丁寧にやり方が書かれている。心理療法の勉強になっていいのだが、密教だから、こういう誰が読むかわからない場所で内容を紹介するとそれなりに祟りがあるかもしれないので、実物は引用しないことにする。興味のある人は、どの本に書いてあるか、個人的にそっと尋ねてくだされば、お教えするかもしれない。

 ヨーロッパでは、キリスト教が神霊の存在を否定したし、自然科学ができてさまざまのことを科学技術で解決するようになったし、いまでも非キリスト教的な神霊の話をすると社会的なアレルギーも強いし、魔法はそんなに研究されていないように思う。もちろん、ユングだとかエリアーデとかシュタイナーとかがあれこれ書いているけれど、奥歯にものが挟まっているようで、もうひとつピンとこない。日本はさいわい、「神霊が存在する」と言っただけでは村八分になることはない。変人扱いくらいはされるかもしれないがね。しかし、明治以後、きわめてやりにくくはなったようだ。一方では「文明開化」で、そういう「旧来の陋習」は捨てるように政府は勧めていたし、一方では明治神道という、自分でも宗教ではないと言い、私などから見ても宗教とは言いがたいものがあって、しかもその正統性を疑うような話をすると迫害するという悪癖があったので、「自然」の神道はほとんど窒息してしまったんじゃないな。

 たとえば、天理教の教祖の中山みき婆さまなどは、なんでも18回も留置場に入れられたんだそうだ。「高山の真の柱が唐人や、これが第一、神のご立腹」というようなお告げをしたからだ。高山というのは皇族のことで、真の柱というのは天皇のことで、唐人というのは外国人ということらしい。もっとも、いまの天理教は、教祖がこういう過激発言をしたことは忘れたことにしているみたいだが。しかし、おみき婆さんが言ったわけじゃなくて、おみき婆さんのところに降りた神さまがこうおっしゃったんだから、おみき婆さんを牢屋に入れてもしょうがないのにね。明治神道というのは、かくも変なものであった。

 こういう話をすると、「野田さんは天皇が外国人と言われて平気なんですか?」と尋ねる人がいるかもしれない。世俗政治的には、それはマズいと思う。当用憲法でさえ「国民の象徴」と書いているんだし、私個人は日本国の君主だと思っているので、もっとも日本人らしい日本人でいていただきたいものだと思っている。しかしそれと神聖宗教的なこととは違うのだ。天理教の神さまのようなうんと古い神さまが、「天照大神は外国の神だ」とおっしゃるのだから、そうなんだろう。「高天原」はたしかに外国だしね。明治神道の問題は、世俗政治的なことと神聖宗教的なことを分離しきれなかったところにある。それが後にさまざまの「現人神」騒動を起こすわけだ。

 仏教もそれなりに受難はあったが、さいわい仏教の仏菩薩も神霊も皇祖神と血縁がないので、「天照大神大日如来だ」と言ったくらいでは迫害されることはなかった。おかげで、真言密教天台密教の魔法は、いまでもアクセス可能な状態にあるみたいだが、神道の魔法は、神社本庁系のちゃんとした(?)神社ではアクセス困難なんじゃないかな。教派神道と呼ばれるアヤしい系(?)のところには、まだ生きているみたいだけれど。もっとも、教派神道でも、教団がすこし大きくなると、信者を幸福にする力がなくなるようだ。教団が巨大化して動脈硬化を起こすと、魔法使いたちは居心地が悪くなる。それで、官僚制度の教団から去って、別のどこか小さな教団に入り込んで、そこで暮らしていく。そういうものらしい。だから、魔法使いを見つけ出すのは、なかなかたいへんかもしれない。

 私自身は、神霊の存在も信じるし、魔法の効果も信じるけれど、自分で神霊に向かって魔法を使って頼みごとをしてみようとはまったく思わない。病気治しに使ったら医師免許を剥奪されるし、金儲けに使ったら悪業がわが身に跳ね返るだけだしね。それに、手続きがものすごくやっかいそうだよ。お願い事をした後腐れもけっこうありそうに思うし。

 ちなみに、仏菩薩と神霊は別のものだと思っている。大乗仏教徒だから三身説で、究極の唯一なる法身仏と、その慈悲がエーテル体の形で実現した報身仏と、実際に肉体をもって地上を歩いておられる応身仏がおられるが、応身仏である釈迦牟尼仏は入滅されたので、いまは無仏の時代だ。しかし、応身の菩薩はたくさんおられるし、報身の仏菩薩はちょっと瞑想修行すればいつでもアクセス可能になる。これにたいして、神霊、すなわち、天や阿修羅や夜叉や龍王などは、形のない生物で、人間と同じように輪廻転生する存在だ。いま魔法について話題にしているのは、仏菩薩ではなくて、天や龍王だ。そういうものたちに働きかけて、人間の仕事を手伝ってもらおうとするのが、今日言っている意味での魔法だ。私は魔法を使わないので、そういう方々とはおつきあいしないことにしている。でも、存在は信じている。だって、それなりの場所へ行けば、ありありと存在を感じるもの。

 神霊の存在はともかくとして、なぜ魔法の効果まで信じるのかというと、それはいくらかの見聞があるからだし、理論的にも可能だろうなと思うからだ。「そんな非科学的なことを信じるんですか?」と言われるかもしれないが、私は、科学者ではあるが科学教徒ではないので、非科学的であることが問題だとは思っていない。「観察可能性」という枠さえはずせば、魔法も実にしっかりした論理をもっているんですよ。

 インド仏教は「地・水・火・風・空」の五大を「器世間」、「識」を「衆生世間」と名づけて厳密に区別していたが、弘法大師は「地・水・火・風・空・識」が「無碍常瑜伽」、つまり相互に密接に関係し合い交流しあっていると考えられた。その結果、山河大地山川草木、何相手にでも魔法が使えるような「錯覚」に魔法使いたちが陥った。そういう魔法はどうせそれほど効果がないので、やがて魔法は評判を落とし、近代科学が輸入されると忘れられていった。

 それでは、識をもつもの、つまり衆生相手の魔法はどうなのか。人間相手は、心理療法家やアメリカ占領軍がその有効性を証明している。動物相手でも、行動理論的な賞罰による調教ではなくて、動物の自由意思を認めながら選択させるような方法が可能な気がする。私は唯物論者ではなくて見えない生命存在を認めているので、そういう者たち(神霊)相手にも、魔法的コミュニケーションは可能だという前提で話をしている。本物の魔法使いたちは、たとえば病気治しをする場合、行者の法力を直接に使う場合もあるが、なんらかの神霊を呼んでその助けを借りる場合の方が多いようだ。しかも、使い道ごとに神霊が違っているのだそうだ。たとえば病気治しだとあの神、金儲けだとこの神と決まっているのだそうで、間違うと効果がないんだそうだ。たとえば、金儲けは稲荷大明神の受け持ちで、天照大神に頼んでもだめなんだそうだ。

 興正菩薩叡尊が蒙古退散のために修法をしたとき、石清水八幡宮に籠って愛染明王法をして、それでもって八幡大菩薩を動かしている。習合神道の魔法はおおむねこういう風に、仏教の仏菩薩に対する修法をしながら、その文脈の中で日本の神霊を呼ぶ。つまり、行者は仏菩薩に対して働きかけ、仏菩薩が神霊に働きかけるという二重構造になっている。どうしてこんな面倒なことをするのかだけれど、普段から馴染みの仏菩薩に「口を利いてもらう」方が話が通じやすいからだろうと思う。ということは、仏教僧でない神道行者であれば、直接に神霊に働きかけたのかもしれないが、そうなると自分が普段からお祭りしている神さまの得意分野のことしかできなくなる。つまり、天照大神を祭っている神主だと、金儲けの相談には乗れなくなる。その点、仏教僧は便利で、観音菩薩なり不動明王なり普段からお祭りしている仏菩薩にお願いすれば、必要に応じてどういう神霊でも呼べたのだろう。中世の常識としては、日本の神々は仏教に帰依しているので、仏菩薩が頼めば、言うことを聞かざるを得なかったのだと思う。いまはどうなんだろうね。

 政治的な理由で、仏教と神道は無理矢理分離させられて、両方ともに不自由な生活をしているように思う。聖徳太子の時以来明治まで、神仏は協力してやってきたんだから、もう一度そうしておいた方が安全であるように思う。仏教という「蓋」をとってしまうと、神道は暴走して「現人神教」になってしまって、国民をずいぶん苦しめた。もっとも、現人神教の方が、いまの無神論の「拝金教」よりはまだマシな気はするが。