競合と協力

 アドラー心理学が勧めている《家族会議》や《クラス会議》は、「協力原理」にもとづいて動く。しかし、地方議会とか国会は「競合原理」で動く。アドラー心理学が教えている会議は協力原理にもとづいており、地方議会や国会は競合原理にもとづいている。これはきわめてくっきりとした違いだ。同じ「民主的」という言葉を使っても、アドラー心理学の《民主制 democracy》と、世間一般の《民主主義 democratism》とは、原理的に違うものだ。つまり、アドラー心理学はあくまで《協力的》であり、これにたいして近代文明は結局のところ《競合的》なのだ。

 競合原理が近代の不幸の根源だとアドラー心理学は考えている。その極端な例が、共産主義と資本主義だ。共産主義は暴力を手段として競合的であり、資本主義は財力を手段として競合的だ。つまり、現代の思想はすべて競合原理にもとづいており、別の言い方をすると非アドラー心理学的だ。だから、現代社会への順応を目的にアドラー心理学を教える人は、自己矛盾を犯している。そうなんですよ。

 これは大事なポイントですね。共産主義が競合的であることは多くの人が賛成するだろうけれど、資本主義も同じ意味で競合的で、「勝者」と「敗者」を作る。要するに「競合的」なのだ。

 そうかといって、現代社会に不適応になるように勧めるわけにもいかないので、まずアドラー心理学に対して『狂信的』になるように勧めている。うまく狂信的になりおおせた人は、《愛のタスク》や《交友のタスク》で接する人々との関係が良くなるので、《仕事のタスク》で接する人たちとの間の多少の不具合は気にしなくなる。さらに、《仕事のタスク》で接する人たちからの一部からすこしくらい嫌われても気にしなくなるので(つまり「嫌われる勇気」ができてくるので)、社会適応は全体としてはかえってよくなる。

 もっとも、出世もしなくなるかもしれないし、金儲けもできなくなるかもしれないけれど、よい人間関係を保ちながら伸びやかに一生を暮らすだろう。私はアドラー心理学を学んで30年あまり暮らして、自分でもそういう実例でありたいと思ってきたし、人にもそういう暮らし方を勧めてきた。ある人たちはそのような考えに賛成して、《横の関係》で《協力的》に暮らして《所属》を遂げて幸福であるが、経済競争や地位競走の勝ち組にはなれないから、そう金持ちでもないし、そう出世もしていない。これでいいんじゃないか?