短歌について(4)

 昨日引用した本居宣長の文章を、小林秀雄はたぶん誤読している。

  歌は「人情風俗ニツレテ、変易スル」が、歌の変易は、人情風俗の変易の写しではあるまい。前者を後者に還元して了(しま)うことはできない。私達の現実の性情は、変易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌は、言わば別種の生を享け、死ぬことはないだろう。「心ニオモフ事」は、これを「ホドヨクイヒツゞクル」ことによって詩に、歌となって生まれ変わる。歌の功徳は、勿論歌の誕生と一緒であるから、「心ニオモフ事」のうちに在る筈はない。(小林秀雄本居宣長』二十二)

 小林は、私と違って、「こころ」と「ことば」とを別のものだと考えている。だから、こういうおかしな議論をすることになる。私は「こころ」とはすなわち「ことば」だと考えているので、そうなると、現代語の散文で語っているときには、そのような「こころ」があり、古語の韻文で歌を詠んでいるときは、そのような「こころ」があることになる。たとえば、

  けふもまたかくてむかしとなりならむわが山河よしづみけるかも

という保田與重郎の歌があるのだけれど、「しづみけるかも」は「鎮みけるかも」だと解釈すると、「今日もまたこのようにしてむかしになるのだろう。私の(慣れ親しんだ)山川が(夕方になって)静まっていく」というようなことだと思う。歌と現代語訳は同じ「こころ」か違う「こころ」かというと、違う「こころ」だと私は言っている。どういう点で違うかというと、現代語は「現在の流転の論理を表現する」ことしかできないのにたいして、歌の「ことば」は、古代から連続した日本人の「こころ」と連続している。保田が、「歌に対する私の思ひは、古の人の心をしたひ、なつかしみ、古心にたちかへりたいと願ふものである」と言うのは、彼が現代の時間の中で経験することを、古人の「ことば」である古語でもって言い表すことで、歴史連続体としての日本人の「こころ」にみずからも参加したい、ということであろう。

 これはちょっとすごいことかもしれない。過去から未来へ続く時間の中の「いま」という時に私は歌を詠んでいる。そのとき、「いま」という時の中でだけ詠むこともできるが、「過去・いま・未来」という連続した時間の中で詠むこともできる。散文だと、むしろ過去や未来を切り捨てた「いま」の時間に集中して読むというのが普通なのだが、韻文では、特に短歌では、「過去・いま・未来」を不可分の時間、さらには空間、の連続体としてとらえて読むことが可能になる。もっともいつでも可能になるわけではなくて、歌人にそのような意識があるとき、そういうこともできるようになるということだ。

 すべての歌人がこのように考えているかというと、現代ではほとんどそんなことはなくて、保田はきわめて稀な例外だと考えた方がいいかもしれない。古語を使う歌人であっても、古語が古人の「こころ」とつながっていることを意識している人はそんなにいない。むしろ、現代社会でのひとつの「個性的」な表現手法として、古語が使われている。たとえば斎藤茂吉の有名な歌、

  最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

は、敗戦後の落魄の中で作られた歌なのだが、『万葉集』の時代の人がこれを読んで「まことにそのとおりだ」と思ってくれるかというと、そうは思えない。これは茂吉のきわめて個人的な体験なのだ。しかし、たとえば、

  うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)とわが見む

という『万葉集』の歌は、処刑された大津皇子を偲ぶ大伯皇女の個人的体験を詠ったものであるけれど、しかも民族が共有するドラマの台詞として共有性を獲得しており、茂吉の歌のように、われわれとは別人である斉藤茂吉の個人の物語ではなくて、「誰であれ親族を悲劇のうちに失った者」に共通の「ことば」、共通の「こころ」であり、民族共有の物語になりおおせている。そのような物語のうちのひとつとして、自分の歌が参加できることを、保田與重郎は喜びにしていたのだろう。

 本居宣長もそういう人だったように思う。そんなに歌の上手な人ではないが、晩年には「マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨム」境地には達していたようで、たとえば次のような歌がある。

  まちつけて初花見たるうれしさは物言はまほし物言はずとも

 「まちつけて」は「待つことに慣れて」という意味だろう。「物言はまほし」の主語は作者で、「物言はずとも」の主語は桜だろう。これは宣長が実際に経験したことでもあるが、日本の歌人が古来ずっと経験し続けたことでもあり、どの時代の歌人がこの歌を見ても、「まことにそのとおりだ」と言っただろう。あるいは、

  桜花ちる木のもとに立ちよりてさらばとだにも言ひて別れむ

という歌もあるが、この歌を詠んだとき宣長はかなり高齢だった。来年は桜を見ることができないかもしれない。これも、どの時代の歌人も、「まことにそのとおりだ」と言うだろう。上手下手を言うなら、どちらの歌もあまり上手だと思わないが、宣長が詠っている「こころ」を、私も共有しているし、『万葉集』や『新古今和歌集』の歌人たちも共有していただろうことは、間違いのないことだと思う。

 宣長の歌はいいとして、保田の歌を引用しておこう。

  ささなみの滋賀の山路の春にまよひ一人ながめし花ざかりかな
  人減りしひろき屋敷の庭に咲く大木の桜うらさびて立つ

 こういう歌を解釈しなさいと言われても、私の手に合うものではない。前の歌は、「滋賀の山路で春に迷って一人さまよううちに花ざかり(桜じゃないかな)に出会った」という意味だろうし、後の歌は、「人が減ったひろい屋敷の庭に咲く大木(おおき?)の桜はうらさびて立つ」という意味だろう。それだけしか書かれていないのだが、書かれていない無限の情緒が広がっている。こういう歌を読み慣れることで、いつか自分もそういう歌を詠めるようになろうと願う。そうしているうちに、やがてこのような歌が詠める日が来るかもしれないし、あるいは今生には間に合わなくて来ないかもしれない。来ないならば来ないでそれでよい。

 このような歌では、作者の個性ではなくて、歌の伝統が、その時代その時代の歌人に歌を作らせている。詠われているのはいま現在の出来事であるが、それは歴史のなかで無限回繰り返されてきた出来事であり、それを詠っている歌人の「こころ」も、歴史の中で連続している多くの歌人の「こころ」と連続したものであり、その「こころ」とは、たとえば「もののあはれ」ということであり、巧みな「ことば」でもってその「こころ」を言い表しおおせたところにその歌の徳がある。宣長と保田の歌論は、ともにそのあたりのことを言っているのだと思う。

短歌について(3)

 今日も昨日までと同じように、『野田俊作の補正項』2016年4月29日を引用しながら書く。ただし若干のコメントを付け加えている。

 本居宣長が和歌の徳について、次のようなことを書いている。

  今は人の心は偽り飾ることが多いので、歌もまた偽り飾ることが多い方が、人情風俗につれて変化するので、自然の理にかなうのだ。であるから、この人の情につれて変化するということは、過去現在未来に不変の和歌の本質であると知るべきである。そうではあるが、今の世において、和歌の道にたずさわり、和歌を心がけるものは、なにはともあれ今の人情に従っておいて、そのうえで偽り飾ってでもいいから、むかしの歌をしっかり学び、むかしの人が詠んだ歌のように、なんとか詠むのだ詠むのだと心がければ、そのうちに自然にふだん読んでいる古歌や古書に心が感化されて、むかしの人のような心のさまに移り変わっていくものだ。そのときには、ほんとうに考えていることを(偽りも飾りもなく)ありのままに読むということになる。これはどうしてかというと、むかしの歌の真似をして、飾り作って詠み続け見習い続けていることの、その徳ではないだろうか。これは和歌の功徳によって、自分の心の在り方が良い方に感化されたということである。
  今ハ人ノ心、イツハリカザル事多ケレバ、歌モ又イツハリカザル事多キガ、即チ人情風俗ニツレテ、変易スル、自然ノ理ニカナフ也。サレバ、コノ人ノ情ニツゝルト云事ハ、万代不易ノ和歌ノ本然也トシルベシ。サレバ、今ノ世ニテ、此道ニタヅサハリ、和歌ヲ心ガクル者ハ、トカクマヅ今ノ人情ニシタガヒテ、イツハリカザリテナリトモ、随分古ノ歌ヲマナビ、古ノ人ノ詠ジタル歌ノ如クニ、ヨマムヨマムト心ガクレバ、ソノ中ニ、ヲノヅカラ、平生見聞スル古歌古書ニ心ガ化セラレテ、古人ノヤウナル情態ニモ、ウツリ化スルモノ也。ソノ時ハ、マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨムト云モノニナル也。コレ何ゾナレバ、カノ古ノ歌ノマネヲシテ、カザリツクリテ、ヨミナラヒ、見ナラヒタル、ソノ徳ナラズヤ。コレ和歌ノ功徳ニヨリテ、我性情モヨク化スルト云モノ也。(『あしわけ小舟』)

 論理の追いにくい文章だが、宣長は、3段階で話をしているように思う。1)むかしの人の心は素直であったが、いまの人の心は偽り飾ることが多い。だから歌も偽り飾ることが多くなるのが、自然のなりゆきなのだ。これは認めておくしかない。2)それはそれでいいから、むかしの人の歌を学んで、むかしの人の歌のように詠みたいものだと願って実践しているうちに、次第に心もむかしの人のように素直になっていく。3)そうなると、偽り飾らなくても、心をそのままに詠めばそれで歌になるようになる。

 宣長は、歌という「ことば」と、その歌を作り出す「心」(人情・性情)とを分けて考えているが、私は構造主義者なので、「心」は「ことば」によって作り出されるのだと考えている。だから、同じことを言うのでも、「ことば」の使い方が変われば、その背後にある「心」のあり方も変わる。それは和歌に限らずなんでもそうなのだが、その中で和歌が他の「ことば」と際立って違うのは、日本人の歴史を貫く「こころ」につながっている点だ。

 保田與重郎が、

  私は遠い祖先から代々をつたへてきた歌を大切に思ひ、それをいとしいものに感じる。私にとつては、わが歌はさういふ世界と観念のしらべでありたいのである。

と言っているのは、まさにこの点を言っているのだと思う。短歌を詠むということは、いまの時代の中で詠むことであると同時に、先祖からの悠久の和歌の歴史の中で詠むことでもあり、連続体としての日本文化に参加することなのである。短歌に限らず、保田が願っていたことはそういう生き方であって、いま現在の損得計算だけで行動するのではなくて、日本人の長い歴史の連続線上で自分の去就を決めて生きたいということであった。短歌は、そのための重要な方法だと、彼は考えていたようだ。

 そのような彼にとって、たとえば斎藤茂吉の、

  国こぞる大き力によこしまに相むかふものぞ打ちてし止まん
  漢口は陥りにけり穢れたる罪のほろぶる砲の火のなか

というような歌は、いくら万葉ぶりの語法でも、いま風の「イツハリカザル」心で詠まれたもので、到底「マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨム」境地には達していないと思われただろう。別の言葉で言うと、いま現在の損得計算しか頭になく、日本の悠久の歴史の連続線上でものを考えていないということだ。どうして茂吉はそんなことになってしまったかというと、子規万葉ぶりの語法にこだわり、『万葉集』にだけ固執して、『古今集』以下の和歌を軽んじた結果、視野狭窄に陥ってしまったということだろう。

 子規の話を少しする。彼が歌を詠み始めたときには、「子規万葉の語法」などというものはこの世になくて、ただ彼の読みぶりだけが「万葉ぶり」だった。子規がきわめて優れていたのは、自分が詠んだものの中に「万葉ぶり」が含まれるようにあらゆる工夫をしたし、実際の努力もした。その結果、彼の後半生の(といっても若いのだが)和歌は立派に「子規万葉ぶり」をなしていた。もっとも、きびしくつきつめれば、本物の万葉ぶりと子規万葉ぶりとは違っていたのだろうけれど、明治の人にとっては、あるいは現代の人にとっても、古典万葉ぶりは、すくなくとも芸術創作上はどうでもいいことであって、現代歌人が現代のできごとを短歌に詠むときに、どのように詠めば万葉ぶりの調子が出るかというところに関心の中心があった。子規万葉ぶりはたしかに万葉ぶりではあった。ただし、万葉ぶりの全部ではなかったが。

 私も一時、子規万葉ぶりの語法にかぶれもすれば、『万葉集』でなければ歌でないと思っていたこともあった。それがそうでなくなったのは、折口信夫門下の人々のおかげで『玉葉集』や『風雅集』の美しさを知り、そこから『新古今和歌集』も楽しめるようになって、『古今集』もその時代なりにそうだったんだなとわかるようになり、日本の和歌の歴史全体との折り合いがついたからだ。そのことが、茂吉のような視野狭窄に陥らないでおれるひとつの理由かもしれない。「日本武尊だって源義経だって楠木正成だって、そんなに野蛮じゃなかったよ」と自然に思えるということだ。敵には敵の正義があり、敵にも滅びる哀れさはある。そして、滅びはいつわが身にふりかかるかもしれない。それが見えないなら、日本人じゃない。

 『玉葉集』『風雅集』風の歌といえば、こういうものだ。

  めぐりゆかば春にはまたも逢ふとても今日のこよひは後にしもあらじ
  夏浅きみどりの木立庭遠み雨ふりしむる日ぐらしの宿

 どちらも京極為兼の歌だが、保田の歌は確実にこの延長線上にあるが、茂吉の歌はこれらとは完全に断絶している。

 私が「和歌」なり「万葉ぶり」なり言うときには、単に『万葉集』に似ている詠みぶりを言っているのではなくて、『万葉集』の心ざしに通じる詠みぶりのことを言っている。それが具体的にどういうことなのかは簡単には言いあらわしにくいところがあるのだが、保田與重郎が、たとえば本居宣長を規範として「万葉ぶり」の歌を詠むときに、それがあらわれていた。そしてそれは、折口信夫とその門下によって『玉葉集』や『風雅集』にまでひろめて考えることができるようになった。

短歌について(2)

 保田與重郎の歌の話を続ける。いま掲載している原稿は、実は「写し」であって、オリジナルは『野田俊作の補正項』2016年4月28日(昨日のは27日)にある。若干の手直しをしてある。

 保田は独創性を発揮しようとは思っていなくて、基本的には『新古今和歌集』を模倣しようとしているのだけなのだが、おのずとそこに彼らしさがあらわれいでている。

  押坂の古川岸のねこやなぎぬれてやさしき春の雪かな

 なんとよい歌であろうか。「押坂」というのがどこであるのかよくからないが、日本のどこかだ。そこに「ねこやなぎ」が生えているわけだが、それが「春の雪」に濡れて「やさしい」ということだ。「だからどうなのね」と聞かれると困るのだが、逆に「そうでなければどうなのね」と問い返せるほどせっぱつまった情景であると言えないこともない。どのようにしてこんな詩が書けたのだろうか。

 保田が『新古今和歌集』を高く評価したのは、後鳥羽上皇の研究をしたこともあるが、本居宣長の影響もあるように思う。宣長は、

  『新古今和歌集』は歌の姿が完全に整っているので、後世の歌が善いか悪いか、優れているか劣っているかを見るには、新古今集を基準にして、その集の歌に似ているのが善い歌である。
  歌ノ風体ノ全備シタル処ナレバ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也。(本居宣長『あしわけ小舟』)

と書いている。もっとも、これは他人の歌を鑑賞するときの話で、自分で歌を詠むときには、『新古今和歌集』を模倣してはいけないと言っている。

  『新古今和歌集』の歌は、その時代の上手な人たちが、奇跡的に得ることができたもので、後の世の人がありきたりに真似をして得られるようなものではない。無理に真似をすれば、なんともいえないくだらないことになってしまうだろう。未熟な人は、ゆめゆめ新古今集のやりかたを追いかけてはいけない。
  これは、此時代の上手たちの、あやしく得たるところにて、さらに後の人の、おぼろげに、まねび得べきところにはあらず、しひて、これをまねびなば、えもいはぬすゞろごとに、なりぬべし。いまだしきほどの人、ゆめゆめこのさまを、したふべからず。(本居宣長うひ山ぶみ』)

と書いて、「よい子は真似をしてはいけません」と言っている。保田が、それにもかかわらず新古今ぶりの語法を使ったのは、なによりもまずそれが好きだったということだろうし、さらに、万葉ぶりを使うことへのある抵抗があったからだろう。その抵抗は、子規の門流があまりにも万葉ぶりを振り回しすぎていたことにもあるだろうけれど、宣長が万葉風の語法を拒否したこととも関係があるかもしれない。宣長の師の賀茂真淵は、宣長が万葉風の歌を詠まないことに腹を立てて、

  あなたの歌は、新古今のよい歌は置いておいて、中でも悪い歌を真似ようとして、結局は後の世の連歌よりもまだ悪くなってしまっています。右の歌たちは、ひとつも私が採用するものはありません。こういうのをお好みになるのなら、万葉集についてのご質問もおやめになってください。これでは万葉は、なんの役にも立ちませんから。
  是は新古今のよき歌はおきて、中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりし也。右の歌ども、一つもおのがとるべきはなし。是を好み給ふならば、万葉の御問も止給へ。かくては万葉は、何の用にたゝぬ也。

と手厳しく批判しているのだが、宣長はまったく意に介さなかったようだ。それはどうしてかについて、小林秀雄は、

  宣長が、「新古今」を「此道ノ至極セル処」と言った意味は、特に求めずして、情と詞とが均衡を得ていた「万葉」の幸運な時が過ぎると、詠歌は次第に意識化し、遂に情詞ともに意識的に求めねばならぬ頂に登りつめた事を言う。登り詰めたなら、下る他はない。そういう和歌史にたった一度現れた姿を言う。(小林秀雄本居宣長』二十一)

と言っている。すなわち、もはや『万葉集』の時代のように、「心」が「ことば」として自然に歌になったような時代は過ぎ去ってしまい、「心」についても「ことば」についても工夫しないと歌を作れない時代になった。しかも、そのような努力も『新古今和歌集』で絶頂を迎えてしまい、そこからはより品下れる歌しか詠めない時代になった。それでも人は歌を詠まざるをえないわけで、そうなると『新古今和歌集』を模範としながらも、しかもただ真似をするのではなくて、自分の「心」と自分の「ことば」を工夫して作歌するしかない、というのが宣長の意見であったようであるし、保田の意見も同じことであったのではないか。

 保田が歌を詠むのは、「古の人の心をしたひ、なつかしみ、古心にたちかへりたいと願ふ」からであると同時に、「永劫のなげきに貫かれた歌の世界といふものが、わが今生にもあることを知つた」からである。ここで「なげき」という言葉が使われているのも、宣長と関係がある。

  「歌」「詠」の字は、古来「うたふ」「ながむる」と訓じられて来たが、宣長の訓詁によれば、「うたふ」も「ながむる」も、もともと声を長く引くという同義の言葉である、「あしわけ小舟」にあるこの考えは、「石上私淑言」(いそのかみささめごと)になると、更にくわしくなり、これに「なげく」が加わる。「なげく」も「長息」を意味する「なげき」の活用形であり、「うたふ」「ながむる」と元来同義なのである。「あゝ、はれ ― あはれ」という生まの感動の声は、この声を「なげく」「ながむる」事によって、歌になる。(小林秀雄本居宣長』二十三)

 保田には、歌という形式を借りて「なげく」べきことがたくさんあった。

  山かげを立のぼりゆくゆふ烟わが日の本のくらしなりけり

 これなど、歌としての出来はよくないと思うけれど、保田の理想世界、神の「ことよさし」によって稲作をして助け合って暮らす世界が忘れられ失われてゆくことへの「なげき」が、直接に歌われたものだ。他の歌には、こんなに直説法では語られないが、やはり日本の歴史や風土への限りない「なげき」が歌われているのだと読みとるべきだろう。

 そう思って、

  押坂の古川岸のねこやなぎぬれてやさしき春の雪かな

を読み返すと、単に「川岸」だとか「ねこやなぎ」だとか「春の雪」だとかを並べただけの作ではなくて、川岸もねこやなぎも春の雪も、いずれも動かしがたい「ただいまここで」の世界の実現だという気がしてくる。保田の歌を詠み込んで、しだいにその風景が、保田の一生の中でも、宇宙の長い歴史の中でも、ただ1回だけ起こった稀な現象なのだと思えてくるのだが、それは私の思い過ごしなのだろうか。いなむしろ、短歌というのは宇宙の現象をそのような「一回性」のなかで読み返すことに、本来の目的があるのではあるまいかと、私は思っている。

短歌について

 詩人の保田與重郎が『木丹木母集』(もくたんもくぼしゅう)という変わった名前の歌集を出している。彼の歌集はこれひとつしかないので、探せば容易に見つかるだろう。たとえば新学社版がある。

  さゝなみの志賀の山路の春にまよひ一人ながめし花ざかりかな
  夜もすがらふゞきし雨の朝あけて松葉にたまりしづくする音
  雪しぐれたちまちはれて日はつよし遠くの道を人歩みゆく

 一読してすぐにわかるのは「子規万葉ぶりの語法」を使っていないということだ。「子規万葉ぶりの語法」というのは、正岡子規の門流のことば使いのことで、私が勝手にそう名づけている。これについては、むかし、あるところに次のように書いたことがある。

  現代の短歌雑誌などを読んでいても、子規の末裔の作はすぐにそれとわかる。その作家を知らなくても、子規の門流であることが容易に感じとれるのである。それはなぜであろうか。彼らのことば使いである。彼らはことば使いにきわだった特徴を持っているのである。子規が残したものは、さしあたって、ことば使い、語法、であると私は考える。現在の時点からふりかえって見るならば、子規の門流に一貫しているのは、ただことば使いだけではないかとさえ、私には思われるのである。

 ところが、当世大流行の子規万葉ぶりの語法を、保田は採用していない。保田が編纂した『規範国語読本』(新学社)には、伊藤左千夫の歌が掲載されているし、伊藤左千夫は典型的な「子規万葉ぶり」の歌人だ。もちろん、多読家の保田であるから、「子規万葉ぶり」の権化のような斎藤茂吉も知っておれば島木赤彦も知っていただろう。つまり、「子規万葉ぶりの語法」の力については、よくよく知っていたはずだ。しかも自分の語法としては「子規万葉ぶり」を拒否している。

 そうして、その対抗馬として、後鳥羽上皇をはじめとする『新古今和歌集』の歌人たちのような語法を採用している。後鳥羽上皇の御歌は、たとえば次のようなものだ。

  み吉野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春の明けぼの
  夕立のはれゆく峰の雲間より入日すずしき露の玉笹
  山の蝉なきて秋こそふけにけれ木々の梢の色まさりゆく

 これらの御歌と保田の歌が、同じ音色に響き合っていることは、おわかりになると思う。こういう語法を採用したことには、ひとつの強い念いがあるのだと思う。『木丹木母集』の「後記」に、

  歌に対する私の思ひは、古の人の心をしたひ、なつかしみ、古心にたちかへりたいと願ふものである。方今のものごとのことわりを云ひ、時務を語るために歌をつくるのではない。永劫のなげきに貫かれた歌の世界といふものが、わが今生にもあることを知つたからである。現在の流転の論理を表現するために、わたしは歌を醜くしたり、傷つけるやうなことはしない。さういう世俗は私と無縁のものである。私は遠い祖先から代々をつたへてきた歌を大切に思ひ、それをいとしいものに感じる。私にとつては、わが歌はさういふ世界と観念のしらべでありたいのである。(前田英樹保田與重郎を知る』新学社,p.6)

と書かれている。この「後記」について、前田英樹氏は、

  ここには、専門の短歌作者たちには決して言い得ないことがあるでしょう。当今、歌人と呼ばれるような人たちには、多かれ少なかれ、自己を表すことにおいて独創的であろうとする自負心が抜き去りがたくある。よく言えば、近代人としての《芸術意欲》があるわけです。それによって、「歌を醜くしたり、傷つけるやうなこと」が頻繁になされている。そのような《芸術》よりも、万古を貫く「歌」のしらべに生きることが、どれほどすぐれたことであるかを知らない。そのしらべは、大昔の日本人の暮らしからまっすぐに来ています。日本とも、日本人とも言う必要なく暮らしていた人々の言霊(ことだま)の風雅(みやび)から来ている。大陸から文字が移入されるよりもはるかな昔から、この国の言霊の風雅は、完成された働きをもって人々の心をしっかりと導いていました。(前掲書,p.66)

と書かれているが、保田は、すくなくとも短歌においては、「自己を表すことにおいて独創的であろうとする自負心」をもっていなかったということだ。というか、「子規万葉ぶりの歌人」たちが、ときとして「方今のものごとのことわりを云ひ、時務を語るために歌をつくる」ことに反感を持っていたのだろう。実際、短歌はプロレタリア文学にも利用されたし、国粋運動にも利用された。左翼であれ右翼であれそういう歌人たちは、保田の目からは、「古の人の心をしたひ、なつかしみ、古心にたちかへりたいと願ふ」ために歌を作るのでなく、「世俗」のために歌を利用しているだけに見えたのだと思う。

 「世俗」のために作品を利用するのは、なにも短歌だけではなくて、文芸全体にそうだと思う。たとえば戦争に関する小説を書くとすると、作者の戦争に対する態度は自然にその中にあらわれるわけだし、そのことは読者に影響を与え、もし作品がよく売れるなら、世の中全体に影響を与える。もし作者が戦争について賛成あるいは反対の意見を持っていて書くなら、世の中をその方向に動かそうとしているわけで、これが「方今のものごとのことわりを云ひ、時務を語るために歌をつくる」ということだ。話題は、戦争でなく、たとえば不倫であってもいいので、作者が不倫について賛成あるいは反対の意見を持っていて書くなら、やはり、「方今のものごとのことわりを云ひ、時務を語るために歌をつくる」ことになる。保田は、自分はそういう風に文芸を利用することはしないと言っているわけだ。さすが「日本浪曼派」だ。

 じゃあ、文芸はなんのためにあるのだろう。保田は「古の人の心をしたひ、なつかしみ、古心にたちかへりたいと願ふ」ためにあるのだと言うのだが、「古の人の心」とはなんだろう。それは「自然(かんながら)」の心だと、保田なら言うだろう。エマニュエル・レヴィナスが、「ひとりの人から他の人間への関係のうちでは、善良さは可能です。体制、組織化された体系、社会的制度としての善良さは不可能です」と書いたあとで、ワシーリー・グロスマンの小説を例に挙げる。

  通り過ぎる徒刑囚に道端で一切れのパンを与える老女の善良さであり、傷ついた敵兵に自分の水筒を差し出す兵士の善良さであり、老人を憐れむ若者の善良さであり、納屋にユダヤの老人を匿う農夫の善良さである。(合田正人・松丸和弘訳『他性と超越』法政大学出版局,p.113)

 保田が言う「古の人の心」というのも、こういうことではないかと私は思っていて、短歌であれ長編小説であれ、「たちかへりたいと願う」のは、そういう人間の暮らしだと、私は思っている。

智慧と煩悩を超えたもの

 チベット瞑想はある種の「テーマ」をもっている。たとえば「智慧と煩悩は本質的には同一だ」とか「迷いと悟りは本質的には同じだ」というようなことだ。問題の立て方がちょっと変っているでしょ。「智慧と煩悩はこれこれが違う」とか「迷いと悟りは本質的に違っている」だとかいうようなことがテーマだと、一見悟りが開けそうだが、実際には永久に悟りは開けないんだそうだ。そういうわけで私も「わけのわからない」テーマについて瞑想を続けている。

 「悟り」あるいは「迷い」、「智慧」あるいは「煩悩」は、一見きびしく対立するものであって、けっして両立できないことになっている。しかし実はそうではない。なぜそれら両者がこんなにきびしく対立してみえるかというと、実はわれわれの「ものの見方」の側に問題があるのであって、その「ものの見方」が見ている事物そのものの側にあるのではない。ぶっちゃけて言うと、事物そのものは「A」でもなく「ノットA」でもなくて、そのどちらでもありどちらでもない「中性」であると教えているのだ。

 しかし、そんなのって本当だろうか。つきつめて問い詰められると、私もよくわからない。わからないけれど、いま現在の認識がすべて「A」もしくは「ノットA」で、この認識に従っているかぎり「A」の「しばり」あるいは「ノットA」の「しばり」から自由になれないので、それで瞑想してこの境界を乗越えようとしている。実際にはそう簡単ではなくて、私に関してはまだ一向にメドが立たないんだけれどね。

瞑想修行

 チベット仏教の瞑想仲間が集まって、6月末から7月初に行なう瞑想会の準備をした。

 瞑想をして暮らすというのは「奇妙」な習慣だ。大部分の民衆はそんなことなしに無事に暮らしている。ただ一部の衆だけが瞑想をして、自分の「自然な」考えを不思議に思い始める。意識で思考を見つめても思考がとまるわけではない。かえってうるさくなることさえあるかもしれない。それでもある人たちは瞑想を続ける。それを五年も十年もやっていると、ある種の「やり方」ができる。私は仏教関係の瞑想しか知らないが、ヒンズー教イスラム教の瞑想は違うことをしているのかもしれない。仏教の内部でも、上座仏教と大乗仏教の瞑想は違うみたいだし、大乗仏教の中でも真言宗曹洞宗だとやっていることが違うみたいだ。

 そうではあるのだが、ひとりの人間がある瞑想法を選び他の瞑想法を捨てるというのは、これはどうしようもないことだ。だから私のようにチベット瞑想の一流派に属してしまうと、他の瞑想法についてはなにも知らないことになって、ただチベット瞑想だけを知っていることになる。これがいい状態なんだかよくない状態なんだか、よくわからない。けれども、瞑想を続けて修業していくかぎり、いつの日にかどれかの流派の方法にとりこまれるわけだし、とりこまれたらその宗派で続けていくしか方法がなくなる。

 今日も一日よいお天気だった。料理当番ではなかったので、一日のんびりとコンピュータを見ていた。インターネットで放送を見ていることが多くて、朝は「虎ノ門ニュース」というニュース放送番組、午後は「竹田恒泰チャンネル2」というニュース解説番組を見た。これらの番組は「右翼」だと言われている。たしかに左翼ではないけれど、世間が言う右翼とも違っている。第一、暴力的な主張がまったくない。政治的な主張の内容も、右翼と言うよりは中道だろう。実際には、ずっと続けて見ているほど熱心ではなくて、30分ごとくらいに休憩をとっている。放送と違って、休憩をとればそこで止まって、しばらくして連続のボタンを押せば続きを放映する。

 夕食は私の当番ではなかったのだが、西の方のB市というところに住んでおられるお友だちが「イサキ」という魚を送ってくださった。大阪でも手に入らないことはないんだけれど、鮮度がまるで違う。2匹いただいたので、とりあえず1匹を塩焼きにした。絶味であった。