短歌について(2)

 保田與重郎の歌の話を続ける。いま掲載している原稿は、実は「写し」であって、オリジナルは『野田俊作の補正項』2016年4月28日(昨日のは27日)にある。若干の手直しをしてある。

 保田は独創性を発揮しようとは思っていなくて、基本的には『新古今和歌集』を模倣しようとしているのだけなのだが、おのずとそこに彼らしさがあらわれいでている。

  押坂の古川岸のねこやなぎぬれてやさしき春の雪かな

 なんとよい歌であろうか。「押坂」というのがどこであるのかよくからないが、日本のどこかだ。そこに「ねこやなぎ」が生えているわけだが、それが「春の雪」に濡れて「やさしい」ということだ。「だからどうなのね」と聞かれると困るのだが、逆に「そうでなければどうなのね」と問い返せるほどせっぱつまった情景であると言えないこともない。どのようにしてこんな詩が書けたのだろうか。

 保田が『新古今和歌集』を高く評価したのは、後鳥羽上皇の研究をしたこともあるが、本居宣長の影響もあるように思う。宣長は、

  『新古今和歌集』は歌の姿が完全に整っているので、後世の歌が善いか悪いか、優れているか劣っているかを見るには、新古今集を基準にして、その集の歌に似ているのが善い歌である。
  歌ノ風体ノ全備シタル処ナレバ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也。(本居宣長『あしわけ小舟』)

と書いている。もっとも、これは他人の歌を鑑賞するときの話で、自分で歌を詠むときには、『新古今和歌集』を模倣してはいけないと言っている。

  『新古今和歌集』の歌は、その時代の上手な人たちが、奇跡的に得ることができたもので、後の世の人がありきたりに真似をして得られるようなものではない。無理に真似をすれば、なんともいえないくだらないことになってしまうだろう。未熟な人は、ゆめゆめ新古今集のやりかたを追いかけてはいけない。
  これは、此時代の上手たちの、あやしく得たるところにて、さらに後の人の、おぼろげに、まねび得べきところにはあらず、しひて、これをまねびなば、えもいはぬすゞろごとに、なりぬべし。いまだしきほどの人、ゆめゆめこのさまを、したふべからず。(本居宣長うひ山ぶみ』)

と書いて、「よい子は真似をしてはいけません」と言っている。保田が、それにもかかわらず新古今ぶりの語法を使ったのは、なによりもまずそれが好きだったということだろうし、さらに、万葉ぶりを使うことへのある抵抗があったからだろう。その抵抗は、子規の門流があまりにも万葉ぶりを振り回しすぎていたことにもあるだろうけれど、宣長が万葉風の語法を拒否したこととも関係があるかもしれない。宣長の師の賀茂真淵は、宣長が万葉風の歌を詠まないことに腹を立てて、

  あなたの歌は、新古今のよい歌は置いておいて、中でも悪い歌を真似ようとして、結局は後の世の連歌よりもまだ悪くなってしまっています。右の歌たちは、ひとつも私が採用するものはありません。こういうのをお好みになるのなら、万葉集についてのご質問もおやめになってください。これでは万葉は、なんの役にも立ちませんから。
  是は新古今のよき歌はおきて、中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりし也。右の歌ども、一つもおのがとるべきはなし。是を好み給ふならば、万葉の御問も止給へ。かくては万葉は、何の用にたゝぬ也。

と手厳しく批判しているのだが、宣長はまったく意に介さなかったようだ。それはどうしてかについて、小林秀雄は、

  宣長が、「新古今」を「此道ノ至極セル処」と言った意味は、特に求めずして、情と詞とが均衡を得ていた「万葉」の幸運な時が過ぎると、詠歌は次第に意識化し、遂に情詞ともに意識的に求めねばならぬ頂に登りつめた事を言う。登り詰めたなら、下る他はない。そういう和歌史にたった一度現れた姿を言う。(小林秀雄本居宣長』二十一)

と言っている。すなわち、もはや『万葉集』の時代のように、「心」が「ことば」として自然に歌になったような時代は過ぎ去ってしまい、「心」についても「ことば」についても工夫しないと歌を作れない時代になった。しかも、そのような努力も『新古今和歌集』で絶頂を迎えてしまい、そこからはより品下れる歌しか詠めない時代になった。それでも人は歌を詠まざるをえないわけで、そうなると『新古今和歌集』を模範としながらも、しかもただ真似をするのではなくて、自分の「心」と自分の「ことば」を工夫して作歌するしかない、というのが宣長の意見であったようであるし、保田の意見も同じことであったのではないか。

 保田が歌を詠むのは、「古の人の心をしたひ、なつかしみ、古心にたちかへりたいと願ふ」からであると同時に、「永劫のなげきに貫かれた歌の世界といふものが、わが今生にもあることを知つた」からである。ここで「なげき」という言葉が使われているのも、宣長と関係がある。

  「歌」「詠」の字は、古来「うたふ」「ながむる」と訓じられて来たが、宣長の訓詁によれば、「うたふ」も「ながむる」も、もともと声を長く引くという同義の言葉である、「あしわけ小舟」にあるこの考えは、「石上私淑言」(いそのかみささめごと)になると、更にくわしくなり、これに「なげく」が加わる。「なげく」も「長息」を意味する「なげき」の活用形であり、「うたふ」「ながむる」と元来同義なのである。「あゝ、はれ ― あはれ」という生まの感動の声は、この声を「なげく」「ながむる」事によって、歌になる。(小林秀雄本居宣長』二十三)

 保田には、歌という形式を借りて「なげく」べきことがたくさんあった。

  山かげを立のぼりゆくゆふ烟わが日の本のくらしなりけり

 これなど、歌としての出来はよくないと思うけれど、保田の理想世界、神の「ことよさし」によって稲作をして助け合って暮らす世界が忘れられ失われてゆくことへの「なげき」が、直接に歌われたものだ。他の歌には、こんなに直説法では語られないが、やはり日本の歴史や風土への限りない「なげき」が歌われているのだと読みとるべきだろう。

 そう思って、

  押坂の古川岸のねこやなぎぬれてやさしき春の雪かな

を読み返すと、単に「川岸」だとか「ねこやなぎ」だとか「春の雪」だとかを並べただけの作ではなくて、川岸もねこやなぎも春の雪も、いずれも動かしがたい「ただいまここで」の世界の実現だという気がしてくる。保田の歌を詠み込んで、しだいにその風景が、保田の一生の中でも、宇宙の長い歴史の中でも、ただ1回だけ起こった稀な現象なのだと思えてくるのだが、それは私の思い過ごしなのだろうか。いなむしろ、短歌というのは宇宙の現象をそのような「一回性」のなかで読み返すことに、本来の目的があるのではあるまいかと、私は思っている。