観音成就法

 「ターラー成就法」の引用はいちおう終わった。せっかくターラー成就法を引用したので、ついでに「観音成就法」も、と思っているのだが、評判はどうなんだろうね。ターラー成就法は先日やったばかりだから、またやってみようと思う人がいるかもしれないのだが、観音成就法は(たぶん)昨年にドルズィン・リンポチェをお呼びしたときに実習してもらってからあまり手をつけていないんじゃないかな。ちょっと周囲の人々の噂を聞いてみなければ。

 私はどちらが好きかと聞かれれば、まあどちらも好きだ。けれどもいまは観音成就法をやってみようとは思わない。たぶん一昨年ごろにしっかりやりこんで、いちおう落ちついている。ターラー成就法をしっかりやりこんで、なんでもなく呼吸しているだけでもターラー菩薩の「気」が全身にめぐるようになれば、気分を変えるために観音成就法に凝ってみるかもしれない。

 そういう話なので、いちおう観音菩薩の成就法を見てみる。基本的な作り方はターラー菩薩とも変らないし阿弥陀仏とも変らない。まあ人の好きずきに合せて本尊を分けてあるわけだ。なにはともあれ観音菩薩成就法から。この経典にはマントラ集が2つついているので、今日は先に出てくる方を紹介する。この前に、成就法にかぎらずすべての経典に共通の導入部があるが、それは今日も省略。

観音菩薩の観想】

ああ|離戯論離見の空を本性に|自身はまさに倶生の清浄身|
純白一面四臂にて結跏趺坐|前の両手は胸で合掌し|
後は右数珠左は白蓮を|相好円満誓智別なき身|
胸の月輪六字が HRI 囲み|回りて輝き器世間浄土にし|
有情世間を清浄身となし|すべての声は六字を自性とし|
すべての想いは本性大慈なり|

OM MANI PADME HŪM

 短い成就法だが、その分 OM MANI PADME HUM の回数を増やせばいい。まあ時間を見ながらだけれど、一千回くらいはほしいな。

 「離戯論」というのは「たわむれごとを離れた」ということだ。「よい」だの「悪い」だの「美しい」だの「醜い」だのといった「戯論」を離れて、「ただありのまま」に対照を見る。「それってどんな風」と言われると困るので、まあそんな状態があるんだと思っておいてください。そのうちご自分で体験される日が来るでしょう。仏教の特質はこのあたりにある。真理は「中」にあって、それはすべての偏見が落ちたときにはじめて見えることになっている。「離見」もこれと関連していて、右だの左だの理系だの文系だのといった世間の差別を超えたところに本当の姿があると考えられている。「そうなんだ」と思っていただくしかない。ともあれ、離戯論・離見に「本当の」姿がある。そうわかったとき、自分の身体は「まさに倶生(生まれながら)の清浄身」とわかるわけだ。ということは、本当の姿を見るまでは、どんな風に見えていても本当の姿は見えていない、ということだ。

 純白で腕は四つで結跏趺坐している。前の両手は胸で合掌し、後ろの両手は右は数珠、左は白蓮をもっている。容貌は円満であり、誓願と知識に別がない状態だ。胸には月輪があって OM MANI PADME HUM の六字が円形に書かれていて、その真ん中に HRI 字がある。六字は輝いてまわりの世間を浄土にし、生物の世界を清浄の身体にし、すべての声は OM MANI PADME HUM の六文字を自性とし、すべての想いはその本性が大慈なのだ。

ターラー成就法(3)

 今日は最終回だ。主要なマントラは昨日終わったので、今日は全般的な後始末だ。

【七つのターラー菩薩讃】

聖母(マ)、無生法界住み処とし|仏母(ユム)、尊き天母よ救い主|
そは(テ)、一切有情に楽たまい|われを(ダク)、あまたの苦より守られよ|

自身(ラン)、法身なること知らずして|心(セム)、煩悩力にまとわれる|
聖母(マ)、輪廻をさまよう有情をば|仏母(ユム)、天母よ御身よ守れかし|

法(チヨ)、心相続に生ぜずば|仮説の言語を追いかけて|
悪(あ)しき教えにだまされん|仏母(ユム)、まことなる天母よ守れかし|

証悟しがたきわが心|観ても習いとなりがたく| 悪行に向く心散漫|仏母(ユム)、護念の天母よ守れかし|

心(セム)、自生の無二の智慧なれど|二元に執する習気より
なにをしようと繋縛さる|聖意(トゥク)、不二なる天母よ守れかし|

真実勝義に住んでいながら|因果縁起を知らざるままに|
知るべき実義に無知な者|仏母(ユム)、全知なる天母よ守れかし|

離戯の虚空の性相は|一切において無分別|
知らざる弟子の人々を|仏母(ユム)、円満覚者よ守れかし|

OM ĀRYA TĀRE SAPARIVARA ARGHAM PĀDYAM PUSPE DHŪPE
ĀLOKE GHANDE NEVIDYE SHABDA PRATĪTTSHA SVĀHĀ

 聖母よ、無生法界を住み処とし、仏母、尊き天母よ救い主よ、その人は一切有情に楽をくださり、私をあまたの苦から守られますように。自身が法身なること知らないで、心は煩悩力にまとわれる。聖母よ、輪廻をさまよう有情を、仏母よ天母よ御身よお守りください。法が心相続に生じなければ仮説の言語を追いかけて悪い教えにだまされるでしょう。仏母よ、まことなる天母よ守ってください。「ああそうなんだ」と証悟しがたいわが心は観ても習いとなりがたく、悪行に向いてしまう心散漫でしかありません。仏母よ、護念の天母よ、お守りください。心は自生の無二の智慧なのだが、二元的な見方に執する習気によって、なにをしようと繋縛されています。聖意よ、不二なる天母よお守りください。真実勝義に住んでいながら因果縁起を知らないままで知るべき実義に無知な者が私です。仏母よ、全知なる天母よお守りください。戯論を離れた虚空の性相は一切において無分別です。これを知らない弟子の人々を、仏母よ、円満覚者よお守りください。

OM ĀRYA TĀRE SAPARIVARA ARGHAM PĀDYAM PUSPE DHŪPE
ĀLOKE GHANDE NEVIDYE SHABDA PRATĪTTSHA SVĀHĀ

【ターラー菩薩讃】

天と非天が冠で|蓮の御足を頂きて|
すべての苦より救う母|ターラー仏母に頂礼す|

OM ĀRYA TĀRE SAMAYA|MANU PĀLAYA|ĀRYA TĀRE TENOPA TISTHA|
DRIDHO ME BHĀVA|SUTOTOKHAYO ME BHĀVA|SUPOKHAYO ME BHĀVA|
ANURAKTO ME BHĀVA|SARVA SIDDHI ME PRAYATTSHA|
SARVA KARMA SUTTSHAME | TSITTAM SHRĪYAM KURU HŪM|
HA HA HA HA HO|BHAGAVAN SARVA TATHĀGATA|
ĀRYA TĀRE MĀME MUNTSA| ĀRYA TĀRE BHĀVA MAHA SAMAYA SATVA AH|

あらゆる不足と不完全|心の愚昧の力にて|
なしたる錯誤を寛恕して|まことの成就を与えませ|

OM|ここなる御姿ともにして|輪廻の果てまでおわしまし|
無病と長寿と自在など|こよなく良きもの給えかし|

OM|御身は有情を利益して|やがては成就を給わりて|
仏の国土におもむくも|ふたたび帰り給えかし|

BADZRA MU|

わが前の智慧尊(ちえそん)自性によりて本源に帰りたまい|三昧耶尊が自心に融け入りたまう|

 天人と非天人(つまり阿修羅)が冠で(あなたの)蓮の御足を頂いて、すべての苦より救う母、ターラー仏母に礼拝します。

OM ĀRYA TĀRE SAMAYA|MANU PĀLAYA|ĀRYA TĀRE TENOPA TISTHA|
DRIDHO ME BHĀVA|SUTOTOKHAYO ME BHĀVA|SUPOKHAYO ME BHĀVA|
ANURAKTO ME BHĀVA|SARVA SIDDHI ME PRAYATTSHA|
SARVA KARMA SUTTSHAME | TSITTAM SHRĪYAM KURU HŪM|
HA HA HA HA HO|BHAGAVAN SARVA TATHĀGATA|
ĀRYA TĀRE MĀME MUNTSA| ĀRYA TĀRE BHĀVA MAHA SAMAYA SATVA AH|

 あらゆる不足と不完全、心の愚昧の力でもっておこなってしまった錯誤を許してくださって、まことの成就をお与えください。

 OM ここなるお姿と一緒に輪廻の果てまでおわしまし無病と長寿と自由自在などこよなくよいものをお与えください。

 OM あなたさまは有情に利益を与え、やがては成就を給わって、仏の国土に赴かれるのでしょうが、その後もこの世にお帰りくださいますように。

BADZRA MU

 私の前の智慧尊は自性によって本源に帰りたまい、三昧耶尊が私の心に融け入ってくださる。

【吉祥偈】

宝幢頂母自在の王|天母に供養し成就を得|上師天母に吉祥を|

 宝幢頂世界の母、自在の王である天母に供養し成就を得よう。上師天母に吉祥を。

【回向文】

わが行善の供養にて|衆生御身を成就せよ|(回向せよ)

尊者仏母よ大悲をもつ者よ|われと無辺の一切有情らの|
二障を除き二資糧円満し|無上等覚証得させたまえ|

仏果を得るにいたらぬ生々も|天人もしくは人の殊勝得て|
すべての知識を習得するを得て|障礙や悪鬼や病に冒されず|
さまざま不時の死をもまぬがれて|悪夢ももろもろ悪しき前兆も|
八難などの危難が迫れども|ただちに鎮めて除きたまえかし|
世間ならびに出世間にても|吉祥ありて円満成就して|
ますます増えてあますところなく|労せずおのずと実現せんことを|
修行にはげみ正法いや増して|いつでも御身に学んで尊顔見|
空性悟りて宝の菩提心|弦月のごと成長増大し|
甘美と歓喜の勝義のマンダラの|最美の蓮華のうちより生まれいで|
無量光仏まのあたりに拝し|親しくわれに授記をいただかん|
わが生々に成就せし天母|三世諸仏の事業をなせる母|
真白き一面二臂の寂静母|睡蓮(ウツパラ)持てる仏母に吉祥を|
勝者ターラー御身の御体と|眷属御身の寿量と仏国土
相好美点のすべてを兼ねそなえ|かくのごとくにわれらが成ることを|

この讃嘆と祈願の力もて|われらいずこの土地にあろうとも|
病魔貧困戦乱鎮まりて|仏法吉祥増大させたまえ|
お体傷なく相好兼ねそなえ|み声も傷なく迦陵頻伽にて|
心も傷なく万法観たまえる|吉祥輝く聖母にさちあれよ|

 私の善を行なうことの功徳によって衆生が御身を成就しますように。

 尊者仏母よ大悲をもつ者よ、私とよるべのない一切有情らの二障を除き二資糧円満し、無上等覚を証得させてください。

 仏果を得るにいたらない生々も天人もしくは人の殊勝を得て、すべての知識を習得することを得て、障碍や悪鬼や病に冒されず、さまざま不時の死をもまぬがれて、悪夢ももろもろ悪い前兆も、八難などの苦難が迫ることがあっても、ただちに鎮めて除いてください。世間ならびに出世間においても吉祥があって円満成就して、ますます増えてあますところなく、苦労せずに自然に実現するように。修業にはげみ正法がますます増え、いつでもあなたに学んで尊顔を見、空性を悟って宝のような菩提心が弦月のように成長増大し、甘美と歓喜の勝義のマンダラの最美の蓮華のうちから生まれいで、無量光仏をまのあたりに拝し、親しく私に授記をいただけますように。私の生々に成就した天母、三世諸仏の仕事をなさる母、真白な一面二臂の寂静の母、睡蓮をお持ちになる仏母に吉祥を、勝者ターラーさまの御身の御体と、眷属御身の寿量と仏国土、相好美点のすべてを兼ねそなえ、そのように私もなれますように。

 これでターラー菩薩成就法の主要部分は終り、あとにマントラの威力を封じ込めるための終結部が続く。

ターラー成就法(2)

 勢いに乗って「ターラー成就法」の後半を紹介する。前半は長いマントラ

 OM TĀRE TUTTĀRE TŪRE MAMA ĀYUJNĀNA PUNYE PUSTIM KŪRŪ SVĀHĀ|

で終り、短い偈文でいったん休憩になる。しばらくして(その日かもしれないし、別の日かもしれない)再開する。今日すべてを紹介してもいいんだけれど、ちょっと長すぎる気もするので、後半部を二つに分けて、今日はその前半部、明日に後半部を紹介することにする。

【マンダラを観想する】

前にマンダラ円満荘厳土|見るに優しき優曇華の上に|
仏母は相好具えて輝きて|一面七眼右手は施願の印|
左は睡蓮(ウツパラ)絹と珠まとい|頭上の弥陀は三処に OM ĀH HŪM|
胸の TĀM から光が密厳へ|相同尊呼び不二に融け入りぬ|

 いったんすべての画像は消えていたが、瞑想を再開するにあたって「マンダラ円満荘厳土」というものをイメージする。優曇華の花が咲いていて、その上に仏母がおられる。一面で七眼(両目と額と右手と左手と右足と左脚)が開き、右手は「施願の印」を結んでおられ、左手は睡蓮が絹と珠をまとってもたれている。頭上には阿弥陀仏がおられて OM AH HUM の3つの印が書かれている。TARA菩薩ご自身の胸には TAM 字があって、そこから光が密厳浄土へ指している。そうして相同尊を呼ばれ、ひとつに融け入ってしまう。

【諸仏諸菩薩を迎える】

OM|仏母と諸仏諸菩薩を|無別の信で迎えれば|
大慈と悲心で想いませ|
OM ĀRYA TĀRE BADZRA SAMAYA DZA TISTHA LHEN|

 TARA仏母と諸仏や諸菩薩を区別しない信仰でお迎えいたしますので、大慈と大悲心で思ってください。 OM ĀRYA TĀRE BADZRA SAMAYA DZA TISTHA LHEN

【供物を捧げる】

OM|物と心の供物らと|外・内・秘密の真如の供|
飲み水・足水・花と香|灯明香水食音楽|
五欲七宝八吉祥|天人財宝供養雲|
聖衆に海と捧ぐべし|

OM ĀRYA TĀRE SAPARIVARA ARGHAM PĀDYAM PUSPE DHŪPE
ĀLOKE GHANDE NEWIDYE SHABDA PRATĪTTSHA SVĀHĀ
PA SHABDA GHENDE RASYA SPARSHE RATNA MANGALA PŪJA HOH|

 経典のこの部分では、ターラー菩薩に供養を差し上げる。「もの」の供物もあるけれど「心」の供物もある。しかも「外」「内」「秘密」の三種の真如の供物をさしあげる。飲み水・足水・花・香・灯明・香水・食物・音楽の八種類でもって五欲・七宝・八吉祥・天・人・財宝・供養の雲を、聖衆に海のように捧げよう。

OM ĀRYA TĀRE SAPARIVARA ARGHAM PĀDYAM PUSPE DHŪPE
ĀLOKE GHANDE NEWIDYE SHABDA PRATĪTTSHA SVĀHĀ
PA SHABDA GHENDE RASYA SPARSHE RATNA MANGALA PŪJA HOH|

【マンダラ供養】

須弥山四洲と小洲鉄囲山|天界三千娑婆界荘厳し|
主あるもの主なきものも|心で仏母に捧げたてまつる|

RATNA MANDALA PŪZA MEGHALA A HŪM|

地に香を撒き華を散り敷きて|須弥山四洲に日月荘厳し|
仏国土なりと念じて奉納せん|衆生あまねく清浄地を得べし|

 須弥山と世界の四大陸、小さい陸地と鉄囲山、天界と三千娑婆世界を荘厳して、主のあるものもないものも、心で仏に捧げたてまつります。

RATNA MANDALA PŪZA MEGHALA A HŪM|

 地に香を撒き花を散り敷いて、須弥山四洲に日月を観想し、仏国土だと念じて奉納します。衆生はことごとく清浄の境地を得るように。

【七支分】

尊母聖母ターラーと|十方三時に住まわれる|
一切諸仏諸菩薩に|心を浄めて頂礼せん
花と灯明薫香水|食物音楽などをもて|
物と心で供養せん|聖母の衆よ受けたまえ|
無始の時より今までの|十種の不善と五無間の|
煩悩故に犯したる|すべての罪業懺悔せん|
声聞独覚菩薩たち|世間の凡夫の者たちの|
三時に積みたる善業の|福徳われは随喜せん|
それぞれ有情の考えと|理解の違いに応じつつ|
大乗小乗共通乗|法輪転じたまえかし|
輪廻が空にならぬ間は|涅槃に入らぬ慈悲をもて|
苦患の海に沈みたる|有情たちをば見そなわせ|
わが積むかぎりの福徳の|すべてが菩提の因となり|
遠からずして衆生らを|導く吉祥もてるよう|

 尊母聖母ターラーと十方三時に住んでおられる一切諸仏諸菩薩に心を清めて礼拝しよう。花と灯明・熏・香水・食物・音楽などをもって、物と心で供養しよう、聖母の衆よ受けたまえ。無始の時からいままでの十種の不善と五無間の煩悩故に犯したすべての罪業を懺悔しよう。声聞・独覚・菩薩たち、あるいは世間の凡夫の者たちの三時に積んだ善業の福徳を私は随喜しよう。それぞれ有情の考えと理解の違いに応じつつ大乗・小乗・共通乗の法輪を転じてください。輪廻が空にならない間は涅槃に入らない慈悲をもって苦患の海に沈んだ有情たちを見てください。私が積んだかぎりの福徳のすべてが菩提の原因となり、遠からずして衆生らを導く吉祥をもてますように。

【供物を捧げる】

OM A BIGHANAN TA KRITTA HŪM PHAT
OM SVABHĀVA SHUDDHA SARVA DHARMA SVABHĀVA SHUDDHO' HAM|

宝の器に供物と甘露精|聖母に捧げん財富の増えんこと|

OM A BIGHANAN TA KRITTA HŪM PHAT
OM SVABHĀVA SHUDDHA SARVA DHARMA SVABHĀVA SHUDDHO' HAM|

宝の器に供物と甘露精を聖母に捧げよう、財富の増えますように。

【二十一のターラー菩薩讃】

OM 尊者聖母ターラー菩薩に頂礼したてまつる|

礼せんターラーすばやき勇母|おん眼は刹那のいかづちのごと|
三世の守護尊蓮華の顔の|花びら開きて生まれたまえり|

礼せんターラー秋の明月|百も重なる光るかんばせ
千の星々従えながら|光り輝き燃えさかる母|

礼せんターラー緑と金で|手に持つ蓮華で荘厳されて|
布施と精進苦行と寂静|忍辱禅定守れる母よ|

礼せんターラー如来の頂髻|こよなき勝利の行事の母よ|
余さず無上の波羅蜜得たる|仏子菩薩の師事する母よ|

礼せんターラー TUTTĀRE と HŪM 字|欲界虚空を満たせる母よ|
七つの世界をみ足で押え|ひとり残さず集める母よ|

礼せんターラー帝釈梵天|火神風神諸天が供養し|
精霊死霊ガンダルヴァらと|夜叉も来りて讃える母よ|

礼せんターラー TRET 字と PHAT 字の|魔力の呪輪を取り去る母よ|
右足曲げて左は押え|火炎はいやます忿怒の母よ|

礼せん TURE 字の大畏怖の母|獰猛魔神も打ち砕く母|
蓮のみ顔に忿怒の皺で|敵を余さず殺せる母よ|

礼せんターラー三宝印を|指で作りてみ胸に当てて|
すべての方位の輪をもて飾り|自身の光で魔を散らす母|

礼せんターラー最勝歓喜|宝冠光輪輝き増して|
えまれ笑われ TUTTĀRA をもちて|魔障も世間も従える母|

礼せんターラー大地の神を|すべてを残らず集める母よ|
怒りの皺の HŪM 字によりて|すべての貧困救われる母|

礼せんターラー弦月の冠|すべての飾りが燃えさかる母|
おぐしの中には阿弥陀がおられ|たえざる光を放てる母よ|

礼せんターラー劫末の火の|ごとなる火輪の中央に座し|
右脚伸ばして左は曲げて|喜環の印で敵破る母|

礼せんターラー大地をみ手で|撃たれてみ足で踏み叩かれて|
忿怒の皺よせ HŪM の文字で|七重の世界を砕かれる母|

礼せんターラー楽・善・静と|涅槃寂滅境なる母よ|
SVĀHĀ と OM を正しく持され|大罪さえも消したまう母|

礼せんターラー喜びの環で|怨敵の身を打ち砕く母|
十字の聖句で荘厳された|明知の HŪM よりいでたる母よ|

礼せんターラー TURE の足もて|踏みてHŪM の種字なる母よ|
須弥山・曼荼羅・賓陀の山や|三世間さえ動かす母よ|

礼せんターラー天なる海の|兎の印を手に持てる母|
TĀRĀ の二文字と PHAT なる字もて|いかなる毒も除かれる母|

礼せんターラー天衆の王|天とキンナラ仕える母よ|
鎧兜の歓喜の威光|騒乱悪夢を追い払う母|

礼せんターラー日月のごと|両目に光の輝ける母|
HARA の二文字と TUTTĀRA をもちて|激しき疫病取り去る母よ|

礼せんターラー真如の三で|寂静力を正しく持ちて|
悪鬼と死霊と夜叉衆などの|すべてを滅ぼす TURE の母よ|

これこそ根本真言にして|二十一偈の礼讃なりき|

 ここがターラー菩薩の真言の核心部だが、長いし、難解な部分もあるし、翻訳は省略させてください。毎日お唱えしておれば、意味はだんだんわかってくるでしょう。

【ターラー菩薩への祈願】 

聖母よ悲心で二障を取り除き|二資糧円満八難十災の|
縁やみ修福法財増えてゆき|衆生畏怖去りブッダにならんこと|

聖母よ、悲心で二障を取り除き、二資糧を円満して八難十災いの縁がやみ、修業の成果が増えてゆき、衆生は畏怖を去りブッダになるように。

聖母の胸なる TĀM と真言輪|放光利生し寿命と徳を増す|

OM TĀRE TUTTĀRE TŪRE MAMA ĀYUJNĀNA PUNYE PUSTIM KŪRŪ SVĀHĀ|

聖母の胸にある TAM 字と真言の輪よ、放光利生し寿命と徳を増すように。

OM TĀRE TUTTĀRE TŪRE MAMA ĀYUJNĀNA PUNYE PUSTIM KŪRŪ SVĀHĀ|

これで念誦の後半は終りだ。あと、経典全体を締めくくる部分があるが、それは明日に廻す。ただ書き写して解説をつけるだけでも疲れますよ。

ターラー成就法

 「ターラー成就法」の前半部を紹介する。ほんとうはこの前にすべての経文に共通の導入部がある。その部分は、この経文に独特のものでなくて、チベット語の経文ならどれにでもくっついている一般的な文章だ。それはまた機会があれば紹介することにして、今日は本格的に「ターラー成就法」がはじまってからの部分だ。ただし、長いので、前半部だけにする。気分が良ければ後日に後半部をご紹介する。

【帰依と発心】

南無|仏法僧の本体なる仏母|われら帰依して菩提心発さん|
(3回繰り返す)

 「仏母」というのはターラー如来のことで、観音菩薩でも阿弥陀仏でもなくて、ターラー菩薩が教主であることを示している。

【供物を捧げる】

OM A BĪGHANAN TA KRITTA HŪM PHAT|
OM SVABHĀVA SHUDDHA SARVA DHARMA SVABHĀVA SHUDDHO' HAM

四方の神と縁ある霊らとに|宝の器に供物の雲捧ぐ|
害心捨てて利楽を成ずべし|BHŪTA GATTSHA|

 「四方の神」というのは仏教以外の聖霊たちのことだろう。「霊」も同様で、仏教以外の天地の霊のことだと思う。「宝の器に供物の雲」というのは、実物があればそれを意味するが、実物のないときはイメージでこしらえる。「害心捨てて」というのは、それらの神々はわれわれ人間に害心があると、それに反応するので、まず人間が一切の害心を捨てて、平静な心でつきあう決心をすることを意味しているのだろう。

【自身が本尊になる観想】

自身は聖母で白き胸中の|光は十方照らす護輪なり|
BADZRA RAKSHA RAKSHA|

ふたたび白光十方土を照らし|仏母と諸仏と諸菩薩招き寄せ|
敬礼内外秘密の供養して|懺悔し善行随喜し利生請い|
長生願い菩提に回向して|福田融け入り衆生は楽を得て|
諸苦を離れて不偏の平等を|空性の境に密厳浄土あり|
宮殿ありて宝玉ちりばめて|木々と睡蓮(ウツパラ)宝鬘美しく|
その中央に蓮月宝座あり|TĀM 字が光りて二境を利益して|
われは真白く輝く如意輪母|右は施願で左は白蓮を|
結跏し相好備えて五光燃え|八つの宝と五つの衣まとい|
頭上の阿弥陀の三処に OM ĀH HŪM|心中白き TĀM より光いで|
密厳土より相同・灌頂尊|招きて無二の灌頂印されん|
DZA HŪM BAM HO| ABHISHEKATE SAMAYA SHRĪYE HŪM|

 ここから行者自身がターラー如来に変身する。この瞑想の前半部ではターラー如来その人が主役だ。胸の真ん中に光の輪がある。そこから空間を照らしだし、その光明のなかに諸仏諸菩薩を招き寄せる。主人公はあくまでターラー如来だ。「内」の供養と「外」の供養と「秘密」の供養をする。そして自分が犯した悪行を懺悔し善行を随喜して生命を生かすことを願い、長生きを願って究極の菩提に廻向する。ターラー菩薩の善行によって衆生は楽を得て、諸々の苦を離れて「かたよりのない」平等を獲得する。「空性」の世界に密厳浄土という名の浄土が作られ、宮殿があって宝玉が散りばめられ、木々も蓮華も宝の髪飾りも美しい。その中央に蓮の形の月の宝座がある。TAM字が光って二境(なんだろうね、勉強しなくては)を利益する。私は真白く輝く如意輪母で、右手は施願の印で左手は白蓮をもち、脚を組んで如来の相好を供えて五つの光が燃えさかり、八つの宝と五種の絹をまとい、頭上の阿弥陀の三処には OM AH HUM が書かれ、心臓の白い TAM から光が出て、密厳土より相同尊や灌頂尊を招き、無二の灌頂を印される。

【八供養】

OM BADZRA ARGHAM PĀDYAM PUSPE DHŪPE ĀLOKE GHANDHE
NEVIDYE SHABDA PRATITTSHA SVĀHĀ|

【ターラー菩薩讃】

天と非天が冠で|蓮の御足を頂きて|
すべての苦より救う母|ターラー仏母に頂礼す|

 天人と非天人(ということは阿修羅なんだろう)が冠でターラー仏母の足をいただいて、すべての苦から救われる母、ターラー菩薩に頂礼をする。

【如意輪の観想】

仏母の胸に白き輪がありて|中に TĀM 字と左右に OM と HĀ|
われか所修の名前と長命呪|八輻右旋し前に八白字|
光は迷悟の動静威神力|集めて融け入り長寿と智慧とを得|
外輪三重母音は右旋して|子音は左旋し縁起呪(イェダルマ)右旋する|
転ずる光は白・黄・赤・青・緑|茶色が体を満たして幕となり|
中には睡蓮(ウツパラ)新たに花開き|四業と生命吉祥力起こる|

OM BASŪMATĪ SHRĪYE SVĀHĀ|OM BADZRA A TSANDRAYE SVĀHĀ
(七回唱えて数珠に息を吹きかけよ)

OM TĀRE TUTTĀRE TŪRE MAMA ĀYUJNĀNA PUNYE PUSTIM KŪRŪ SVĀHĀ|
(無数回繰り返す)

 ターラー仏母の胸に白い輪があって、なかに TAM 字と左右に OM とHA がある。私の師匠の名前と長生きするようにという呪文の八つの輻が右旋し前に八つの白い文字がある。光は迷いと悟りの動きと静まりの威神力を集めて融け入り長寿と智慧とを得、外輪三重母音は右旋して子音は左遷し縁起寿は右旋する。転じる光は白・黄・赤・青・緑・茶色が身体を満たして幕となり、なかには睡蓮あらたに花開き。四つの業と生命吉祥力が起こる。
 ここでマントラを数百回ないし数千回繰り返す。

【供物を捧げる】

空なる宝器の中なるささげもの|仏母に捧げる五欲の供物なり|
上師は長寿し教えは広がりて|施主も衆生も長寿を得ることを|

 前半部の終了のために、小さなコーダがついている。ここから後半部のマントラの次へジャンプすることも不可能ではないが、そんなに急がないなら後半部もちゃんとやった方が効果があると思う。

 病院のアルバイトがひとつだけ生き残っている。精神科でなくて産科で、しかも大阪の南部だ。できればやめたいのだけれど、いろんな理由があってやめられない。そこから手紙が来た。なんだか資格更新をする必要があって、医師免許証の証明書がほしいという。大津市の市役所へ行って手続きをしなければ。しかし、やっかいそうだ。数日前から準備をして、今日お役所まで行って来た。書類を何種類か記入し、何枚かの書類をいただいた。たぶんこれで大丈夫だと思う。明日にでも当該の病院宛に送り返そう。

 10時半ごろ家を出て、家の近くにある市役所の支部で戸籍関係の手続きをし、それから電車に乗って都心(?)にある保健所に行った。そこで複雑な書類を書き込んで、いくつかの手続きをして、結局12時半ごろにすべての手続きが終わった。ああ、疲れた。昼食を食べて帰ろうと店を探したが、あまり店がない。アメリカ風の焼き肉屋さんに入った。まあ成功だったかな。

☆☆☆

 「白ターラーの瞑想」だが、2セッションがひとかたまりになっている。つまり、途中で止めて、前と後ろに分けることができるということだ。実際にそのようにしている。一昨日書いた

  オン・タレ トゥタレ トゥレママ アユジャナ プニェプティム クル ソハ

というマントラは、前半に1回、後半に1回あって、どちらも好きなだけ繰り返すことになっている。実際には、前半のマントラが終わったところで休憩にして、時間を空けてから後半を行なう。私の場合は、前半のマントラ3百回、後半のマントラ3百回で1日分にしているが、ちょっと短い気がしている。調子を見ながら回数をふやしていくかもしれない。

 マントラは、ご本尊もお唱えになるし、信者もお唱えする。会衆が複数おれば全員でお唱えする。いまのところは「炎」をイメージしている。そんなに「燃えさかる」ほど元気ではないが、それでも光を出して燃えている。こうしているうちに、次第に盛んになるんじゃないかな。最終的に炎だけしかなくなるステージに到達すれば「成就」したことになるのかな。まあ、やってみる。

進展

 白ターラー菩薩の瞑想は2日目に入ったが、そんなに進んだわけではない。まあこんなもので、ダラダラと続いていく。そうしてある日いきなり「進展」が起こる。「進展」の中身はわからない。わかったら「進展」とは言えないものね。とにかくコツコツと続けてゆくことだ。

 こういう上達のしかたが「自然科学的」でない。「自然科学的」というのは、「原因となる因子の展開の上ですべての結果が起こる」という意味だ。世界は確かに自然科学的に動いているのだが、なかにそうでない要素がある。瞑想の中での「進展」なんて、そのたぐいの典型だ。しかし自然科学は「そういう要素は存在しない」と決めつけて話をする。そうして現代社会ができている。

 「進展」がおこると「新段階」に入るかというと、そう単純ではない。翌日にはもう「進展」は起こらないかもしれない。いやそれどころか、おこらないのが普通だ。けれど、一度「進展」が起こったなら、また起こるだろうし、しだいに起こりやすくなるだろう。やがていつか「進展」があるのがあたりまえである日が来る。それまでコツコツと修業を繰り返すことだ。こんなことは、日本の武道を学んだ人なら誰でも体験がある。密教家が目指しているのは、武道の黒帯と同じ境地だ。

白ターラー菩薩の瞑想

 今日から昼間の空いている時間にガルチェン・リンポチェが教えられた瞑想法をていねいにやってみることにした。何種類も教えていただいているのだけれど、いままでの経過からして「白ターラー如来の成就法」が狙い目だとみた。だからしばらくそれで行く。いや、今生の終りまでずっとそれかもしれない。

 瞑想法にはいろんな種類がある。仏教だけにかぎっても、本尊ごとに瞑想法が違っている。瞑想の本体である「マントラ」の部分も違うが、それを取り巻く前後の文体も違っている。ガルチェン・リンポチェのコミュニティのように「古びた」団体だと、各本尊ごとに違う瞑想システムができていて、それが「教本」にまとめられている。たとえば、ターラー如来と観世音菩薩とアミダ如来では、教本の文体がすべて違っている。初心者の弟子としては、習ったもののうちから自分にあったものを決めて、それ一本で修業するのが間違いがない。というわけで、私はターラー如来にした。

 経典の核心部はマントラで、ターラー如来の場合は、

  オン・タレ トゥタレ トゥレママ アユジャナ プニェプティム クル ソハ

 というのを何百回も繰り返す。そうしているうちにめでたく瞑想状態に入る。今日は、ひさしぶりだったので、瞑想状態には入らなかったが、感じはよかった。そもそもこの瞑想は今回はじめたわけではなくて、2017年まで繰り返しやっていた。だから、ひさしぶりに「バトン」を取り戻したという感じだ。翻訳も私がしたものだしね。