時間つぶし

 メインのパーソナル・コンピュータを Windows 7 から Windows 10 にバージョンアップしようとしたが、最終的にうまくいかなかった。動かないのはただ1個所で、YouTube の中の Media Player がうまく動かない。メーカーの修復サイトにも問い合わせてみたが、結局「オリジナルのドライバが古くなっていて、もう修復していません」ということで、打ち切りになった。なんてこった。

 Windows 10 にバージョン・アップしてしまった機械はしょうがないし、困ったなと思っていたら、土地の神さまから「Windows 10 の中古機を大量に放出します」というパンフレットが入った。なんでも1月4日と5日に大津市中心部で中古市を開催するんだそうだ。よおし、これに行くぞ。これとは別に Windows 7 を載せたパソコンがもう一台あるし、まあなんとかなるだろう。

 そう決めてしまうと、あまり迷うこともなくなった。仕事はいっぱいあるだろうけれど、最終的な答にまで到達できるものなら手間を惜しむことはない。あれこれ試行錯誤しながら中央突破しようと思っている。なににせよ、意欲だけは旺盛だ。

 そう決まると、急に人生が暇になった。それで時間の使い方を考えることにした。どういうわけか突然「そうだ、歌を歌おう」と決めた。何の歌にするか考えたが、とりあえず日本の昔の歌にしよう。わが本棚に「日本叙情歌全集」という本があって、全3巻だか4巻だかのうちの2巻分がある。見に行ったら、なかなか好ましい歌が収録されている。まあ、主として童謡で、それにフォークソングみたいなのが付録でついている程度だけれど、わが家にある分だけで数百曲ある。昼からそれにとりかかって、歌ったり休んだりしながら、夜までずっと声を出していた。

ウィンドウズ・バージョン・アップ(3)

 バージョン・アップ中のパソコンは音声ソフトが不具合であるために完全ではない。メーカーに問い合わせたりして修復に努めたが、うまくいかない。お昼前に「まあ、いいか」という状態になって、そのまま「放置」することにした。音が鳴らない以外にはなにも問題がないんだしね。

 そして、努力をもう一台のノート・パソコンに切り替えた。といっても、あわててバージョン・アップせずに、Windows 7 の状態のままでしばらく様子を見ることにした。ていねいに使えば、1月10日だかの締め切り日より先でも動きそうだ。1台目のパソコンについて、メーカーのサイトに援助をあおいだのだが(それでも助からなかった)、そのときにそのことがわかった。

ウィンドウズ・バージョン・アップ(2)

 あかんなあ。ウィンドウズのバージョン・アップ、朝から少しずつ「つめ」ていたが、ちっともつまらない。さてどうしたものか。要するに Solution Menu Ex というものがロードされていないのだ、それってなんだというと、よくわからないんだよね。対策としては、パソコン内部のどこかでそれを見つけ出すか、あるいはパソコン外部のインターネットのどこかで見つけ出すかだ。しかし、後者についてはどこを探せばいいのかわからないし、前者については探す最中にシステム全体をクラッシュさせそうな気がする。ううむ、困った。もうちょっと悩んでからにする。

ウィンドウズ・バージョン・アップ

 ウィンドウズ-7を根気よく使っていたが、来年1月10日だかに期限切れになって、面倒を見てくれなくなるという。そこで仕方なくバージョン・アップすることにした。半月ほど前から考え始めて、初めのうちはオーソドックスに新しいパソコンを買うつもりでいた。ところが、新しいウィンドウズ、つまり10、を手に入れなくても、現在のパソコンに入っている7をバージョン・アップして10にすればいいこと、手間はそれほど面倒ではないこと、などがわかってきた。それで今朝からバージョン・アップにとりかかった。

 午前10時までの定例放送(って言うのだろうか)を見終わってから、「バージョン・アップせよ」と命令した。パソコンはガタガタと動き始めて、昼すぎに「完了しました」と報告してきた。ううむ、すごいなあ。新しいパソコンを買うと最低5万円くらいはするよ。いやあ、儲けた儲けた。

 午後になってあちこちのサイトなどを覗いていると、「音が鳴らない」ことに気がついた。あれこれ手を尽くしたがダメだ。午後4時ごろまで頑張っていったん諦めた。後は明日にまわす。きっとなんとかなるだろう。いままでもそうだったし。

競合と協力

 アドラー心理学が勧めている《家族会議》や《クラス会議》は、「協力原理」にもとづいて動く。しかし、地方議会とか国会は「競合原理」で動く。アドラー心理学が教えている会議は協力原理にもとづいており、地方議会や国会は競合原理にもとづいている。これはきわめてくっきりとした違いだ。同じ「民主的」という言葉を使っても、アドラー心理学の《民主制 democracy》と、世間一般の《民主主義 democratism》とは、原理的に違うものだ。つまり、アドラー心理学はあくまで《協力的》であり、これにたいして近代文明は結局のところ《競合的》なのだ。

 競合原理が近代の不幸の根源だとアドラー心理学は考えている。その極端な例が、共産主義と資本主義だ。共産主義は暴力を手段として競合的であり、資本主義は財力を手段として競合的だ。つまり、現代の思想はすべて競合原理にもとづいており、別の言い方をすると非アドラー心理学的だ。だから、現代社会への順応を目的にアドラー心理学を教える人は、自己矛盾を犯している。そうなんですよ。

 これは大事なポイントですね。共産主義が競合的であることは多くの人が賛成するだろうけれど、資本主義も同じ意味で競合的で、「勝者」と「敗者」を作る。要するに「競合的」なのだ。

 そうかといって、現代社会に不適応になるように勧めるわけにもいかないので、まずアドラー心理学に対して『狂信的』になるように勧めている。うまく狂信的になりおおせた人は、《愛のタスク》や《交友のタスク》で接する人々との関係が良くなるので、《仕事のタスク》で接する人たちとの間の多少の不具合は気にしなくなる。さらに、《仕事のタスク》で接する人たちからの一部からすこしくらい嫌われても気にしなくなるので(つまり「嫌われる勇気」ができてくるので)、社会適応は全体としてはかえってよくなる。

 もっとも、出世もしなくなるかもしれないし、金儲けもできなくなるかもしれないけれど、よい人間関係を保ちながら伸びやかに一生を暮らすだろう。私はアドラー心理学を学んで30年あまり暮らして、自分でもそういう実例でありたいと思ってきたし、人にもそういう暮らし方を勧めてきた。ある人たちはそのような考えに賛成して、《横の関係》で《協力的》に暮らして《所属》を遂げて幸福であるが、経済競争や地位競走の勝ち組にはなれないから、そう金持ちでもないし、そう出世もしていない。これでいいんじゃないか?

無情説法について

 ここ数日は寒い日だ。瞑想を学んでいると、瞑想中には心は明るくなるのだが、瞑想から出ると世界はそんなに明るくない。こういうものなんだと思い込んでいる。いつか、瞑想の境地が広がって、そんなに無理に瞑想に入らなくても、心全体が瞑想状態のままでいるんだろうか。いや、無理かもね。

 それはそれとして、「山川草木悉皆成仏」、すなわち「山や川や草や木がことごとく皆成仏する」という考えかたについて考えてみる。この考え方の歴史的な起源について、学者はかなり調べていて、鳩摩羅什の門下生の間ではじめてそのアイデアが提唱されたことがわかっている。つまり、メイド・イン・インディアではなくてメイド・イン・チャイナだ。

 鳩摩羅什(くまらじゅう Kumārajīva)というのは、4世紀後半から5世紀前半の西域の人で、支那(これは差別用語でなくて、仏典での普通の言い方だ。なんだったら震旦でもいいんだけど。ちなみに仏典で「中国」というと、インドのこと)に来て『法華経』などを翻訳した。彼自身は「山川草木悉皆成仏」ということを言わなかったが、漢人の弟子たちがそういうことを言い出したようだ。

 なぜ漢人の弟子がそういうことを思いついたかというと、道教の影響だと思う。仏教が支那に伝わった最初の頃は、道教と習合して、いまから見るととてもおかしな解釈が横行していた。『弘明集(ぐみょうしゅう)』という仏教導入初期の論書を読んだことがあって、仏教徒道教を批判するのだけれど、その言い分がけっこう道教風なのだ。同士討ちという感じがする。また、その時代の漢訳経典(たとえば『小品般若経』の違訳である『大明度経』など)は、道教用語で訳してあるので、途中で仏教なんだか道教なんだかわからなくなる。それがすっきりと仏教風になるのは鳩摩羅什以後だといわれているのだが、実際はそうでもなくて、鳩摩羅什の弟子たちも道教の影響が濃いし、その後遺症はずっと尾を引いて、今日に至るまで支那仏教は道教色をしている。

 なぜ「山川草木悉皆成仏」では具合が悪いかというと、法身なり如来蔵についての、おそらくもっとも権威のある文献である『宝性論』が、「ブッダ智慧衆生の集合の内に入り込んでいる」と宣言しているからだ。衆生はまた有情とも訳され、原語は sattva だが、「心のあるもの」というのが定義だ。動物にだけ心があって、無生物や植物には心はないと、インド人は考えていた。衆生でないものを無情というが、無情が作る世界が器世間で、衆生の心の世界が衆生世間だ。無理に現代語にあてはめると、物質世界と精神世界だが、現代語ではナマズや蚊の心まで精神世界には含めないだろうから、ちょっと感じが違う。精神世界という用語そのものに西洋の臭いがこびりついている。ともあれ、法身(あるいは智慧、あるいは仏性)は衆生世間にあって、器世間にはないと、文献は言う。文献による権威づけだけでは足りなければ、論理的に考えてもそれはそうだろう。法身智慧であるとすると、智慧は心だ。だとしたら、心のないものには智慧はないだろう。

 「人間の心にだけ仏性がある」と言わないのはどうしてか。それは、法身顕現の体験にもとづいて話をしているからだろう。その体験をすると、「世界に」法身が満ちあふれているように感じるのだけれど、理屈を学ぶと、法身智慧であることがわかり、そうであるとすると、実は「衆生世間に」だけ満ちあふれているのだということになる。世界全体から心のないものを引き算した残りのもの、すなわち衆生の中にだけ仏性があるというのは、論理的な推論の結果なのだ。

 自分もまた衆生だから、自分の中にも智慧が満ちあふれているはずなのだが、実際にはそうではない。瞑想から覚めると、智慧なんかどこにも見当たらない。しかし、瞑想中にはたしかに自分の中にも智慧があふれている感じがしたので、修行しておればいつか全貌をあらわすに違いないという確信は得られる。それはこの生にいる間ではないかもしれないが、いつかの生でかならず実現するだろう。私についていつかの生で実現するとすれば、他の衆生についてもいつかの生で実現するだろう。これを「一切衆生悉有仏性」という。仏教のやさしさの根源だと、私は思っている。

 山川草木には心もないし仏性もないのだけれど、まるで心があるかのように感じることがある。しかし、それは、山川草木に実際に心があることを証明していなくて、われわれの側に、山川草木に心を感じとる力があることを証明している。つまり、山川草木は、われわれの中の仏性(仏の心)を呼び覚ます縁になることはありうるということだ。これを支那仏教では「無情説法」というが、道元はそのような考え方をとても好んだので、日本の禅宗全体にその色彩が強くなったし、さらには日本文化全体にも影響を与えている。その結果、人と自然(無情)とのつきあい方が、他の民族に較べて、うんと優しくなっているように思う。理屈としては、山川草木悉皆成仏はしないのだけれど、縁として山川草木に仏性を感じとり、無情説法に聴き入るのは、悪いことではないと思う。

 これは今日書いたものではなくて、2013年03月04日に『野田俊作の補正項』に掲載したものに、すこし手を入れたものだ。

アドラー心理学と「物語」

 この記事も古い記事の再編だ。

 なにしろ、保守系も革新系(このごろはリベラル系と自称している。国家解体主義者のくせに「保守系」だと言っているバカもいる。さすがポストモダンだ)も、どちらも西洋近代思想、すなわち競合的なパラダイムに乗っかっているものだから、協力的なパラダイムに乗っかろうとするアドラー心理学の居場所がない。だから仕方なく、細い系譜をたどって協力的な思想家を見つけるわけだけれど、そんなにたくさんいるわけではない。だから、西洋人に注目しているかぎり、同じような人を引用して同じような話をすることになる。

 私がアメリカに留学していた時代は、いわゆる「ヒューマニスティック心理学」だの「トランスパーソナル心理学」だの「ニューエイジ・ムーブメント」だのの真っ盛りで、当時のアドレリアンたちはあちこち覗きに行っていたのだけれど、「私は最後までパンツを脱がなかったわ」と自慢げに言っていた尊敬する先輩がいた。「ということは、みんなパンツを抜いだの?」と尋ねたら、「そうよ。別に強制じゃないんだけれど、なんとなく雰囲気で脱いでいくのね。別に裸になったって、新しい自分に出会うことなんかないし、バカバカしいから私は脱がなかった」と言っていた。ということは、パンツ以外は脱いだんだ。まあ、どっちでもいいけれど。

 いまからあの時代を振り返ると、「なんとかムーブメント」といったって、結局は西洋近代思想のひとつの枝にすぎないことがわかる。私は、アメリカから帰ってから、和尚ラジニーシに出会った。日本にトランスパーソナル心理学を紹介した故吉福伸逸氏が、和尚ラジニーシのことを激しく批判していたが、その核心部が「サレンダー」についてだった。仏教用語で言いなおすなら「帰依」についてだ。インド思想は、師匠に絶対的に帰依する。師匠が「蛙が仏だ」とおっしゃったら、その瞬間から蛙が仏になる。そういう点を吉福氏は批判されたのだが、それを読んで、「なんだ、トランスパーソナルなんて言ったって、バリバリに西洋思想じゃないか」とわかり、私はトランスパーソナル心理学ニューエイジ・ムーブメントを見限った。

 そのうち和尚が入滅してしまって、宙ぶらりんでいたが、いまはチベット人のリンポチェとつき合わせていただいている。チベット人もいまでは幾分かは西洋化しているのだろうけれど、西洋風の教育を受けて育たれた和尚ラジニーシとは違って、根っ子のところが非西洋的なので、きわめて協力的にものを考えられる。だから、アドラー心理学とすんなりと接続できる。チベット仏教でなければならないことはないのだけれど、縁があってガルチェン・リンポチェの弟子になったのだから、それでいいと思っている。非競合的な神道(多分存在する)でも非競合的なキリスト教(存在するのかな?)でも、非競合的なイスラム教(これは確かに存在する)でもいいので、西洋近代思想の競合性を拒否する協力的な宗教と接続しておくのがいい。アドラー心理学は宗教と接続して使うように設計されているからだ。日の丸が旗竿に接続して使うように設計されているようなものだ。